大会3日目、8日に予定されている問題別分科会の紹介を、大阪の井沼さんにお願いしました。以下、その①です。
高校普通科の職業的意義を問う
―ポスト近代における<能力>と<学力>の変容をふまえて―
「1990年代に、若者の仕事は大きく変貌した。非正規社員の増加、不安定な雇用、劣悪な賃金…。なぜ若年労働者ばかりが、過酷な就労環境に甘んじなければならないのか。」(ちくま新書「教育の職業的意義」より)
若者の労働と生活世界の現実に向き合ってきた本田さんはストレートに問いかける。その義憤にも似た問いに、教え子たちの卒業後の過酷さを垣間知る私たち高校教師はとても共感してしまうのだ。それが本田さんを再び高生研大会に呼びたい一番の理由といってもいい。
本田さんは、その問いに次のような仮説を立てる。
「それは、戦後日本において「教育の職業的意義」が軽視され、括弧上職業能力を形成する機会が失われてきたことと密接な関係がある」と。(同上)
そして、とりわけ現在の普通科高校を厳しく批判のまな板にのせる。
「教育制度内での通過点としての性格を強める現在の普通科高校は、生徒の学力水準に即して失敗のリスクを最小化する進路決定プロセスのシステム化が進む一方で、生徒自身による自らの将来の選択にとってしっかりした基盤となる経験の提供と、それを実現するために求められる実社会において有用性を発揮しうる能力の形成の側面が非常に弱いという問題を抱えている。」(『進路指導』84(1))
これまた、「高校の勉強って、社会に出て何の役にたつん?」と生徒から問いかけられるような苦しい毎日を送る私たちには思わず頷いてしまいそうな…。
いや、待てよ?私たちがホームルーム活動や行事に多大なエネルギーを注いできたことは、将来の選択の基盤になる経験や実社会で有用な能力を育てることにつながっていなかったのかな?
そもそも、普通科高校の「普通」教育って何だったのか?
本田さんの言う「教育の職業的意義」は「普通」教育をどう批判し乗りこえるものなのか?
ここは、しっかり議論したいところですね。
分科会題名は、そんな議論を期待して、あえて論争的につけてみました。 (つづく)
私自身は、大阪大会のとき、オーダーも入っていないのにコーヒーをお持ちするのにかこつけて、本田由紀さんの控室に厚かましくお邪魔し、ご著書にサインをいただきました。そして『子育ての隘路』をその昔読んだとお話ししましたら、「母親の生きづらさ」について、少しだけですが『特別講義』をお聴きできました。大会にはこれで二度目おいでくださいます。とても参加が楽しみな分科会です。
京都 岸田康子