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新高校生活指導194号、そろそろ届く頃です。

7月29日、滋賀県にて、藤本、夏原、井沼の3人で引落会員分と著者分の発送、合計380冊余を完了しました。
瀧内さんが丁寧に準備しておいてくれたおかげで、初回のもたつきがあったとはいえ、2時間20分で作業を終えました。
そのあと、藤本さんと京都のクロネコに運び、無事発送。、まもなく皆さんの元に届きます。
作業を終えてから2時間、実務について検討しました。まだまだ決めなければならないこと、たくさんあることがわかってきました。
でも、とにかく大切なことは、売って売って売りまくることですね。
引落会員、大会までに500名目標。何としても近づきたい。
現金会員から移行の声掛けがまだ届いていない方、いませんか?
同時に、定期購読、今回のみ購入、まとめて購入など、あらゆる可能性を広げていくことが必要だと思います。
会員の皆さんが、草の根で1冊、2冊をまわりに勧めていってもらえることが、結局は一番の強みだと思います。
今日、さっそく和歌山大学のHさんから6冊注文!ありがとうございます。
7月31日の大阪高生研例会では8冊販売。
明後日から、大学時代の同窓会と北大教育学部の集中講義で北海道に渡るのですが、20冊持って行きます。ゼッタイ完売するぞ~!
みなさん、ぜひ注文してください。
注文は、info@kouseiken.jpか、inuma@mug.biglobe.ne.jp(井沼)まで。
(↑@は小文字に代えてメールしてください)
まだ新高生研の編集会計の振り込み口座が開設されていないので、代金支払いは大会などでお願いするとして、
スタートダッシュが肝心です。
井沼淳一郎

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いよいよベールを脱ぐ!? 高校生活指導 18歳を市民に 194号

 194号は校正戻しもすべて終え、7月1日、日帰りで上京して、出版社と最後の詰めを行いました。あとは、いよいよ8月1日の発売を待つのみ! 引き落とし会員、直接購読の方にはこれまでどおり郵送されます。
 第1特集「シティズンシップ実践を始めよう」は、「シティズンシップ実践って、なんだか遠いよね」と思っている方にゼヒ読んでもらいたい。4つの実践とその分析、小玉論文と現場教師の応答を通じて、ふだんの実践から生徒の市民性を育てていく道すじが スッキリハッキリ!見えてくるはずです。
 高生研の魅力は、よく書き込まれた実践記録と実践者を励ます分析。実践者(記録者)と分析者の1対1の応答で、より議論が深まるように意図しました。
  森野実践は、発達障がいを持つA君の「喫煙」事件をめぐる記録です。さまざまな登場人物を通して、不器用な人間に「普通」の基準を押し付け、はみ出させてしまう政治が見えてきます。
 伊藤実践は、メディア研究部の文化祭の取り組みです。生徒たちが設定したテーマは、「NIMBY?」。「Not In My Back Yard(関係ない)」の略語です。自由に表現することや知ることで傷ついたり他人を傷つけるこわさに立ちすくんでしまう自分を乗りこえて、無関心で閉ざされた世界の扉を開けようとする生徒たちが報告されます。
 酒田実践は、震災復興募金に取り組んだ生徒会の記録です。地元が震災にあう中で、高校生が自分たちの地域の復興の問題として、生徒会方針で募金を決定し行動を起こします。「困っている人に手をさしのべる」というまさに政治の原点のような活動が、公立高校の社会的存在意義を考えさせてくれます。
 佐藤実践は、教育基本条例問題で政治的な自主規制が働きがちな大阪で、言論の自由を生徒とともに作り出していく授業実践です。異質の意見を認め合う関係づくりは、単に授業技術のレベルを超えて、私たちの市民社会観を揺さぶるでしょう。
 小玉重夫論文「シティズンシップ教育再入門 ―市民教育に求められる教師の指導性―」では、シティズンシップ教育をわかりやすく整理し、実践するための視点を提起してもらいました。「難民から市民へ」、「権力の遂行中断性」という提起は、私たちの実践に深い示唆を与えると思います。(つづく)

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この夏は、新「高校生活指導 18歳を市民に」発刊をお楽しみに!     vol.1 表紙デザインのふか~いワケ

 こんにちは。大阪の井沼です。今夏、新高生研の発足とともに、高校生活指導もリニューアルして教育実務センターから年2回刊となります。2012年夏号から2年間、私が初代編集長を務めることになりました。新しい高生研にふさわしいインパクトのある発信源を創りだそうと思っています。9名の編集委員会メンバーは、8月1日発刊に向けて、すでに4回の編集委員会を開いています。これから、このブログで新機関誌発刊までのエピソードを連載して、がんがん宣伝したいと思っています。
新機関誌
 ところで、新誌名は、熱い議論の末に「高校生活指導 18歳を市民に」に決まりました。デザインもすっきりお洒落になっています。最初は新誌名にこめた思いを披露するところですが、それは次回にして、今回は特にデザインのエピソードを先に。
 新機関誌デザインのコンセプトは「電車のなかでも読める??」これは滋賀のFさんの提案です。これまでの高校生活指導はいかにも教育運動の雑誌という色が強くて、公共の場で読むのは何となく居心地が悪かったそうです。そこで、M美術大学で表紙デザイナー志望のOさんに「お洒落な本に」と依頼。ご覧のようなデザインになった次第。Oさんから、「頂いたサンプルのような『教材らしさ』よりも今回は小説や作品集のような『大人の人が持ち歩く情報誌』をイメージしました」とのこと。
 ところで、Fさんの「居心地の悪さ」って、象徴的だと思います。おそらく以前は、そうではなかったのでしょう。学校や教師が未来と真理を語るエージェントとして一定の尊敬があった時代には。でも今や公務員とか学校関係者とわかるだけで文句のひとつも言われそうな空気って感じますよね。いわば僕たちは毎日、保護者や市民のいちゃもんオーラのなかに身を置いているわけですが、だからといってそこから身を隠すのではなく、また敵対するのでもなく、「知的に議論しませんか?」オーラで返していきたい。 
 新高校生活指導が、教育専門職と市民の対話を生み出す大人の知的情報誌になればいいですね。だって今、教育はまたまた、命令下のもの言えぬ世界になるか、もの言う市民の知恵を集めて考え合う世界になるかの分かれ道ですから。

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『高校生活指導』192号の特集には

 新学期。高生研としても、新高生研を目指して大切な数ヶ月を迎えることになりますね。
 さて、大学では今、様変わりが求められています。私が『高校生活指導』192号で「今、大学に行く意味を問う」を特集したのも、構想の出発点はそこにありました。
 3月中旬、京都大学で開かれた大学教育研究フォーラムというものに参加してきました。私は「初年次教育」とか「共同」を取り上げた分科会に意識的に参加しました。というのは、私が勤務している大学でも初年次教育を重視していて、全入学生を対象とした学び方学習の授業などを行っているのですが、昨年私が担当した講座が大変不本意な結果に終わってしまったからです。今年度どう改革したらいいのか、そのヒントを探そうと考えたわけです。
 その中の一つ「討議力養成を中心とする教養教育の改革」という小講演に参加したときのことです。報告内容は、某有名大学の授業実践で、PISA対応の討議力養成プログラムの開発、日本における国際先端教養教育の実現を目的にしたもので、他者と異なる意見を交わし、自らの考え方の一面性や理解の不十分性に気づき、自らの見方を修正していく討議の力を学生に身につけさせる、というものです。教室そのものを討議しやすいように移動式机に改造して、その机をくっつけて、その中央にイノベートボードなるものを置いて討論を記録していき、あとで発表に使ったりする、いわば小~高でもやるような班学習みたいなものがメインになっています。教室を変えたことをイヤだといった教員は一人だけで、「もっとこういう使い方できる」など、積極的な反応が学生からも教員からも見られたと言います。発表者は、「ディスカッションは学ぶ力を高めるために行う」ものであって、「討議力は、それだけ取り出して訓練することはできない。各教科に埋め込み、それぞれが取り組むものである。」と言います。当然と言えば当然ですが、重要な指摘だと思いました。問題はこのあとです。
商店街活性化のために討論を巻き起こそうと、学生たちを引き連れて地域の商店街に出向いたとき、意外なものが活性化したと言います。それは、利害対立、意見の衝突、ねたみといったものです。発表者は、「自営なので、協力する文化がない。自分のやり方はこれしかないと思っている。1回だめになると元に戻らない。それは大学に似ている」と言います。私は「利害対立、意見の衝突こそが討議の本質ではないか」と質問したのですが、「大切なことは最終的な目的は何かということであって、授業という人工的な空間では学ぶ力である。」との回答でした。
 私はここで何が言いたいのかというと、ここにこそ、高生研の存在意義があると感じたということです。
 「共同」「協力」「討議」「批判的思考」…こういったことは、今、多くの大学、研究団体、学会で実践、研究が行われています。しかしそれらの根底には「予定調和」があるように思えてなりません。
 高生研(全生研も)は、集団には利害対立、意見の衝突がつきものであって、それをどのように乗り越えていくかというところに実践・研究のベースがあったと思います。
 大学でこのように、共同とか討議といったことが盛んに取り上げられるようになったということは、早晩、高校でも共同とか討議といったことに取り組めと言われるようになる、そう想像するのは、あながち的外れではないでしょう。
 そんなとき、私たちは、利害対立、意見の衝突といったことにどこまで勇気を持って向き合えるでしょうか。そこにこそ、高生研の試金石があるのではないか、そんなことをこの春休み、考えていました。
久田晴生