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『高校生活指導』192号の特集には

 新学期。高生研としても、新高生研を目指して大切な数ヶ月を迎えることになりますね。
 さて、大学では今、様変わりが求められています。私が『高校生活指導』192号で「今、大学に行く意味を問う」を特集したのも、構想の出発点はそこにありました。
 3月中旬、京都大学で開かれた大学教育研究フォーラムというものに参加してきました。私は「初年次教育」とか「共同」を取り上げた分科会に意識的に参加しました。というのは、私が勤務している大学でも初年次教育を重視していて、全入学生を対象とした学び方学習の授業などを行っているのですが、昨年私が担当した講座が大変不本意な結果に終わってしまったからです。今年度どう改革したらいいのか、そのヒントを探そうと考えたわけです。
 その中の一つ「討議力養成を中心とする教養教育の改革」という小講演に参加したときのことです。報告内容は、某有名大学の授業実践で、PISA対応の討議力養成プログラムの開発、日本における国際先端教養教育の実現を目的にしたもので、他者と異なる意見を交わし、自らの考え方の一面性や理解の不十分性に気づき、自らの見方を修正していく討議の力を学生に身につけさせる、というものです。教室そのものを討議しやすいように移動式机に改造して、その机をくっつけて、その中央にイノベートボードなるものを置いて討論を記録していき、あとで発表に使ったりする、いわば小~高でもやるような班学習みたいなものがメインになっています。教室を変えたことをイヤだといった教員は一人だけで、「もっとこういう使い方できる」など、積極的な反応が学生からも教員からも見られたと言います。発表者は、「ディスカッションは学ぶ力を高めるために行う」ものであって、「討議力は、それだけ取り出して訓練することはできない。各教科に埋め込み、それぞれが取り組むものである。」と言います。当然と言えば当然ですが、重要な指摘だと思いました。問題はこのあとです。
商店街活性化のために討論を巻き起こそうと、学生たちを引き連れて地域の商店街に出向いたとき、意外なものが活性化したと言います。それは、利害対立、意見の衝突、ねたみといったものです。発表者は、「自営なので、協力する文化がない。自分のやり方はこれしかないと思っている。1回だめになると元に戻らない。それは大学に似ている」と言います。私は「利害対立、意見の衝突こそが討議の本質ではないか」と質問したのですが、「大切なことは最終的な目的は何かということであって、授業という人工的な空間では学ぶ力である。」との回答でした。
 私はここで何が言いたいのかというと、ここにこそ、高生研の存在意義があると感じたということです。
 「共同」「協力」「討議」「批判的思考」…こういったことは、今、多くの大学、研究団体、学会で実践、研究が行われています。しかしそれらの根底には「予定調和」があるように思えてなりません。
 高生研(全生研も)は、集団には利害対立、意見の衝突がつきものであって、それをどのように乗り越えていくかというところに実践・研究のベースがあったと思います。
 大学でこのように、共同とか討議といったことが盛んに取り上げられるようになったということは、早晩、高校でも共同とか討議といったことに取り組めと言われるようになる、そう想像するのは、あながち的外れではないでしょう。
 そんなとき、私たちは、利害対立、意見の衝突といったことにどこまで勇気を持って向き合えるでしょうか。そこにこそ、高生研の試金石があるのではないか、そんなことをこの春休み、考えていました。
久田晴生

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