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名古屋大会、交流会ⅠⅡ情報

 アンドウです。

 いよいよ、大会まで2週間を切りました。もう申し込みはお済みでしょうか?

 夏休みに入り、クラブや課外(夏期講座や補習)に追われている方が多いのでしょうか。「震災による遅れを取り戻す」といった流れもあるかも知れません。暑さとは別に、消耗する夏休みにならないことを願うばかりです。そんなときこそ切り替えが大事です。教師自身の英気を養う必要があります。

 民間教育団体の全国大会の目玉はやはり分科会。それを核に大会が構成されます。高生研の全国大会では、問題別分科会と全体会が脇を固めます。全体会の中身は、講演と基調発題。この構成は2005年東京大会以降、高生研があえて選んできた大会内容です。

 そして、もう1つ大切な日程があります。参加者者によってつくられる交流会です。私の感覚では、昼間思いっきり頭を使った分、夜は多くの仲間と語らいゆっくりクールダウンして自分のものにしていく場であるように思います。近年の全国大会交流会は、学習会型内容から、文化探求型、お食事親睦型など、企画発案者によって様々です。単に学習会で終わるだけでなく、そのあと思い思いのグループに分かれて飲みに行くことも多いように思います。

 この名古屋大会の交流会は6日を交流会Ⅰ、7日を交流会Ⅱとして、おもむきを分けて設定しています。

☆8/6交流会Ⅰ 19:00~21:00(各自で夕食を摂って「つどいの館和光」にて)

1.基調を深める    (3階会議室3)

2.原発震災問題を考える(1階大会議室)(定員50)

3.若者交流会(仮)  (2階会議室1)

☆8/7交流会Ⅱ 18:00~     (交流をメインにしたもの中心)

1.東北の仲間に聞く~東日本大震災の現場から~(場所調整中)

2.松下良平さんを囲んで<名古屋コーチン>を (金山:地鶏坊主)

 (時間設定は変更がある場合があります。しおり、大会情宣「ひつまぶし」を確認)

 昨日の記事にある大阪高生研は毎年興味深い交流会企画をやります。今年は、「東北の仲間に聞く」と題し、東北出身の先生から震災以降の現場の様子、悩みや思いなどを語ってもらい、全国の仲間と共有、交流する内容です。(このブログからの発信もあるでしょう)

 大会事務局が企画するものは2つ。「原発震災を考える」と「松下良平さんを囲んで」です。すでに、「原発震災」については中心になる柴原さんがブログに書いています。「松下良平さん」のは、交流会Ⅱに大阪企画だけでは需要が満たされないと奮起して、企画をたちあげました。問題別分科会で報告して頂く松下さんの前泊を、勉強(?)の場に活用し、名古屋飯にもありつこうという一石二鳥の企画です。次の日の打ち合わせをしてから松下さんには駆けつけてもらいますので、名鉄イン金山の直近のお店(地鶏坊主)に18:30スタートを予定しています。

 これ以外にも交流会の企画をまだまだ受け付けます。ぜひ、オープン参加の交流かを企画してください。「交流会があるから、交流会に参加するから、全国大会に参加する」というのも大いにアリだと思います。くれぐれも大会申し込みを忘れずに、交流会に参加してくださいね!

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原発の廃絶に向けて~交流会へのお誘いのようなもの

 定年まであと3年あったのですが、この3月で退職しました。早期退職を決断した理由はいくつもありますが、そのひとつは一面から言えば「やるべき事がある」ということであり、他面から言えば「忙しすぎてやるべき事ができない」ということでした。

 大規模進学校での日常は、私には目の回るような思いでした。有り体に言えば、人様のごとく軽々と仕事をこなす能力に欠けていたと言えるでしょうし、あるいは私には合わない職場(人間関係の事ではない)であったとも言えるでしょう。かつて困難校と目される学校で、挫折感もあれば充実感もある手応えのある日々を送りつつ、地域では漁民とともに原発計画に抵抗していたのは、もう20年近く前のことになります。あのころのように身体も精神も動かなくなりつつあるのを感じていました。

 37年におよぶ漁民の戦いによって、11年前に芦浜原発計画は葬り去られました。私もそれまでの17年間、反原発の道を走り続けていたのでした。それからは戦線を縮小し、他県の仲間と協力しながら、原子力政策の転換を求める政策提言を行う仕事を自分に課しました。具体的には、提言の冊子を編集したり、国会議員ニュースを発行したり、会派や議員との交渉と言うロビー活動を行ったりという作業です。まあ、そのお手伝いをしたという程度の事ですが、本務での日々の多忙さは、その作業さえしんどく思わせるものになってゆきました。

 ここ数年の私の意識の中では、刻一刻と大地震による原発の崩壊とこの世のおわりが近づいていました。とくに東海地震の震央にある中部電力の浜岡原子力発電所の事故が最も危惧されました。ただ、念のために申し添えますと、東北の巨大地震による福島第一原発の大惨事によって、地震・津波が引き起こす原発事故ばかりが意識されますが、地震などなくても原発は危険です。スリーマイル島でも、チェルノブイリでも、地震が原因の原発事故ではありません。機械は壊れるものだという平明な事実をみればよいのです。船は沈み、飛行機は落ちるものです。原発だけが絶対安全だなどという事はあり得ないのです。

 原発事故を防ぐ唯一の方法は、原発の廃絶です。仮に事故がないとしても、生み出された放射性廃棄物(死の灰)は100万年にわたって人類を脅かすことになります。このことだけでも、原発は許してはならないのです。

 1986年のチェルノブイリ事故が起きる前、結局のところ人類は大事故が起きなければ目が覚めないのかと私は絶望的な気持ちでした。そして心のどこかで、遥か彼方で原子力事故が起きればいいと自分が思っているのを感じていました。そう思う自分を許していたというべきでしょうか。そして旧ソ連での原子炉の大爆発と炎上。後悔しました。なんという酷い事を自分は願っていたのだろうと慄然としました。フォトジャーナリスト広河隆一さんの決死行によって伝わってくる現地の子供達の惨状によって、さらに打ちのめされました。決して事故を願い事故を待つなどと、人はかりそめにも思ってはならないのです。私は「事故待ち」を捨てました。

 けれども、美浜原発で死傷者のでる事故があろうと、東海村の臨界事故で死者が出ようと、もんじゅが火災事故を起こそうと、日本の原発推進政策は変わりませんでした。自分が思うように動けないまま、その日が来てしまったら悔やんでも悔やみきれない。やるだけのことをやりたい。そう思うようになりました。まだ在職中に、三重県での反原発市民団体(原発おことわり三重の会)の立ち上げに誘われました。いずれ定年退職したら、事務仕事など引き受けねばなるまいと思い、次にはこれも何かの縁であろうと思い始めました。退職した今、その事務局を担当しています。

 退職願を出して約2ヶ月後、福島原発事故が起きました。吹けば飛ぶような私一人の存在などなにほどのことかと、あるいは傲慢に聞こえるかもしれないのですが、フクシマをまのあたりにして、「自分の人生はカスだった」と思ったことでした。約30年、それを課題として生きて来て、結局は成し遂げられなかったのです。私は人生に失敗したのです。泣けてきました。すべては手遅れとなったのでした。二度と繰り返してはならないチェルノブイリを、繰り返してしまったのです。今も心の整理がついたわけではありません。先日、原発の学習会で、参加者から「どうやって原発を止めたらよいのですか」と問われて、つい「私はそのことに失敗した人間なのです。私に問わないでください」と答えてしまいました。

 ことここにいたっても、この国は目を覚ましません。いまだに原発が稼働し続けるこの現実が私には信じられない思いです。愚かな大人達によって子供達は日々放射線に曝されています。フクシマの放射能がない場所はもうありません。そのような世界を私たちは生きてゆかねばなりません。せめてこれ以上の放射能を生み出さないように、これ以上放射能汚染を増やさないように、原発廃絶という仕事はまだ残されています。

 夜間定時制高校に勤めたときに、同僚の一人が愛知の私学フェスティバルに学んで、学校の枠を超えた生徒の人権文化活動組織を構想し提起し、その立ち上げに関わりました。今も続いている「南勢地区人権を考える高校生文化フェスティバル」です。95年の事でした。同僚3人でその指導に当たりました。第1期生で実行委員会のリーダーであったAさんは、今、おことわりの会の一員として、福島の子供達の放射能疎開を支援する活動の中心にいて、毎日のように連絡を取り合っています。最後の職場でフェスティバル実行委員として出会ったBさんは、今学業を続けながら、やはり会員として行動し、会報の編集を担っています。被曝している子供達を短期間でも伊勢に招こうとAさんが招集した会議が、明日伊勢で開かれます。定時制時代の指導者3人のひとりが出席してくれるのだとAさんが嬉しい連絡をくれました。AさんやBさんといま共に行動できるこの縁をありがたいと思う私がいます。

 さて、なぜこの拙文を書き出したか、うっかりわすれるところでした。大会の1日目(8月6日)の夜の交流会で原子力発電の入門講座のようなことをやります。いまのところ京大原子炉実験所助教の小出裕章さんのインタビュー映画「福島原発で何が起こっているのか①」を1時間上映し、そのあと私が参加者の質問に答える形で進めるつもりでいます。どんな質問でもOKという前提でやります。忙しくて原発の事をゆっくり調べたり、考えたりする時間が持てない方々は、ぜひこの機会をご利用ください。

                                   6月17日 柴原洋一(無職)