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感染症とハイブリッドと現場(その3最終回) ーオンラインを捨てない意味ー

このタイトルが、すでに色あせしてると感じるのは、私だけではないと想像します。

感染症については、下火になることが望まれますが、対面とオンラインを成り立たせる技術としてのハイブリッドは、良くも悪くも熱が冷めていく傾向にあるのかもしれません。

しかし、「あったらよりよくなる」可能性は、簡単に捨てるものではないと考えます。

コロナ禍で扉が開いたいくつかの技術も、さまざまな視点から淘汰を繰り返してきていますが、学びたい場所を様々な手段で確保、保障していくことは、自分自身の学びを開いていく作業につながると私は考えています。

ですので、高生研のお金が続くうち、あと、私がICTと大会に関わることができるうちは、ハイブリッド実施での分科会を約束したいと思います。

 

さて、前置きが長くなりましたが、いよいよ大会が8日後に近づいてきました。

オンラインでの参加申込は、入金確認やハイブリッド運営の準備のため、8月10日(木)が締め切りです。対面参加の申込より早くなっていますので、お間違いなく。

昨年の大会での経験知を活かし、オンラインでも快適な学習環境を目指しします。

たくさんの申込をお待ちしています。(安藤誠也)

オンラインでの参加申込みは、下記の大会参加申込みフォームをクリックしてください。
一番下に、オンライン参加券のボタンがあります。↓↓↓
<大会参加申込フォームのリンク>

交流会・懇親会申し込みフォーム

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感染症とハイブリッドと現場(その2)~BYOD~

(その1)から1ヶ月がたってしまいました。

6月の上旬、私の勤務する学校では、体育祭が予定されていましたが、雨(台風刺激の前線による)のため中止。

さらに、予備日まで中止となり、秋に実施することを検討することになりました。

 

予備開催日の直前のLHRで、生徒に「中学での体育祭は、どんな体育祭をやったのか?」と、私がインタビュアー的に尋ねて回りました。

コロナ禍の影響を受け、中学の3年間で開催されなかった年があったのではないかという私の予想ははずれ、どの中学校でもかなり工夫がされてほぼ全ての学校、学年でも実施されているとのことでした。(中止になった中学校は、聞く中で私立の学校1校のみで、2020・2021年とも中止だった)

また、聴き出すなかでは、「穴あき玉入れ」と称して、大きな穴の開いたかごにまずバスケットボールで穴を塞いでから玉入れを競い合う種目が有ったと、報告してくれました。

 

生徒らからは、「コロナ禍の影響」を体育祭に限って強く感じている印象は受けませんでした。「ひょっとして意識しているのは大人の側だけ?」と感じてしまうくらいです。

 

一方、この渦中において、「GIGAスクール構想」が本校でも進み、BYOD端末が1・2学年に導入されています。GoogleClassroomが使えるクロームブックが入学時に保護者が購入することになっています。

 

1年生は、最初ということもあって、ログインや操作方法などで良く躓き、「先生、できません!」という声がよく上がります。その都度、チューターが個別に回ります。声が複数上がると、当然いっぺんには回れません。放ったらかしになります。しばらくすると、その声が上がった生徒から、「先生、できました。」と声が上がります。同様のことは、ちょくちょくあります。「できない」と言ってから、その後、何らかの試行錯誤や近くの仲間に尋ねたりして進めている様子です。

ちょっとした「突破力」なのかもしれません。

 

これらの様子を、「コロナ禍」を1つのファクターとして分析するのかどうか、意見は分かれるでしょう。しかし、生徒たちは、突破する力を普通に持っています。行きあたりばったり、充てずっぽ操作をして結果を得ている様にも見えます。それでも、コンピューター操作には、そのような「あてずっぽ」操作で、前に進むことができてしまうのは事実。ゲーム操作に近いのかもしれません。

 

決して悪いことだと言いきれるものではないのです。

 

 

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感染症とハイブリッドと現場(その1)

早くも今年度が始まって1ヶ月。5月です。
皆さんお元気でしょうか。高生研で全国フォーラムの受付をやっています安藤です。
このブログにも掲載されています5月全国フォーラムが来週末に迫って来ました。
多くの方のお越しをお待ちしています。
さて、行政的に5類に引き下げられた感染症ですが、これまでの影響の影が時々顔を覗かせる学校現場でないでしょうか?
私は、今年度1年次のチューター(担任)です。
ただでも生徒の顔と名前を記憶するのに時間がかかるのに、マスクはその間に入って、
取ったときの印象の変化効果で、HRの生徒をふわっと捉えていたりします。
悪いことばかりではないとは思いますが、「果たして人は信用できるのか?できないのか?」のワンクッションが、常に生徒たちの間で生じてるように思います。
そんな中でも、LHRで徐々に関わっていくと、それなりにリアクションが返ってくるようになり、「こんないい面があるじゃん!」となります。
否応なく
BYOD端末を持たされた生徒は、それ以上にケータイゲームに侵略されている様子も見えてきたりして、6月にある体育祭でどんな感じになるのか、ツッコミの入れ方を考えながら担任業をやっています。
さて、こんな日々の様子を織り交ぜながら、大会ブログの記事を数回出していくつもりです。
ご贔屓に
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宝島

昨年の夏、『宝島』(真藤順丈著)を読みました。


沖縄の地理や歴史を多少の知っている自分は、沖縄の感覚に浸りながら、じっくり読める小説でした。著者は沖縄の出身ではありませんが、鮮烈なる沖縄について生き生きと語っているように感じます。この小説が沖縄の人たちにどう受け止められているか聞いてみたくなっています。

なぜ、宝島なのか。
人のいのちは宝。その事を讃えている島は、宝島ではないかと自分は勝手に解釈しています。いのちは自分のものではなく、与えられたものでしかない。その与えられたものを大事にする。宝とする。それは、大きくてとても大事なことであるような。これも私が勝手に思っています。

小説には、小学校への米軍機墜落事故やコザの騒動が出てきます。今年、沖縄返還50周年である事を知り、コザ騒動がその直前に起こったことに気が付きました。
沖縄は時に叫んで問いかけます。「これが平和か?」「もっとやるべきことがあるだろ!」
そのことに気づいていてしまっている私たちは、応答するしかないように思います。
自分たちにできることは何か。平和のため、沖縄のため、私たちのため。

沖縄大会は、対面で参加することができなくてもオンラインでも参加できます。教育に携わる者の想いで是非応答してください。お待ちしています。

大会グループ 安藤誠也

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どうするの?!高生研オンライン全国大会?(最終回) つながりが_心配なきこと_シンライン ~オンラインを快適にする方法~

いよいよ大会まで、2週間を切りました。
 わたしは、この大会の受付も担当していますが、今大会の参加者の傾向が少し見えてきました。今までの大会に比較して、分科会単発で参加申し込みされる方がかなり増えています。
リアル対面で行う全国大会ですと、開催地を中心に単発参加は多くなるのですが、on-lineでは、全国各所からその様な申込があります。
 ここに、参加希望者からみてのオンラインで行われる全国大会のメリット(全国各地からすぐ寄れる)が垣間見られます。

 あと数日で申込が締め切られます。
 まだ申込をされていな方は、参加申込のお忘れなきようよろしくお願いします。

 さて、「どうするの?!高生研オンライン全国大会」つづきで最終回でございます。
 ○ 煩わしいオンラインをいかに快適にするか。
 すでに、いろいろな道具(接続機器)の話はしてきましたので、それとはひと味違う話を伝えます。
それは、われわれ人間のことです。様々なことを快適にするのに、人間が関わっていることに目を向けなければ、根本的な改善につながらないのです。(社会を構成しているのは人間、オンランを操作しているのも人間となります。が、ここではややこしくなるので少し逆に見ていきます。)
「自分という人間が頼りにならない!」と感じる方は、目に見えて安心できるオンライン環境を準備してください。WiFiではなく、目に見えてつながってる感丸出しのLANケーブルでつなぐ!とか、接続方法が分からなかったら教えてくれる人をとことん探しに行く!とか、地道に頼りになるものをつなぐ!   
これがわたしの答えです。
民主主義、政治、社会においてそのプロセスや手続きが大事であることと同様、ネット、オンライン、ICTにおいても面倒くささはつきものなのです。機械をつなぐのか、人をつなぐのか。それぞれの性分に合わせて、快適さを追求することがこの世の中をよくすることにつながると思います。

高生研のオンライン全国大会を準備しつつ、そんなことを考えているのです。
紛れもなく、快適さを追求し実感するのは、あなたでしかないのです・・。

安藤

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各地から_寄って語れる_オンライン ~大会に参加する物語~

オンラインでの学習会は、旅費を掛けずに簡単に他者との学び合いが成立することが良いところです。
わたしたちは、様々な価値に対価を払って生活をしているわけですが、「旅行」にお金を掛けるのはその行程、時間、場所、移動に価値を見いだすからです。
昨今、行動の制限を強いられる中、何にお金を使うのか? また、どんな考え方で、価値を見いだし、その価値に見合う対価(時間やお金)を注ぎ込むのでしょうか?
個人的にひそかにそれらを見いだす方法もあるでしょう。しかし、様々な他者が存在してこそ学びは深まります。
学びを深める工夫や対価を注ぎ込もうとする意志は、あなた次第なのです。

わたしは、様々なバリアを越えていくことを1つの趣味としています。
例えば、パソコンのOSの違い(WindowsとMacといった差)を超えてファイルを読み書きできる方法を探したり(15年ほど前は簡単ではなかった)、テレビとPC(相互でコネクターの形式が違う)をつなぐ変換接続機器で持ってない種類のものはないほどです。それは、「互換性フェチ(偏愛)」という言葉が合うように思います。いざというときに接続できなくなるとホントイライラきてしまいます。「なんで、あのコネクターを持ってこなかったのだ~!」と。
ですので、いつもわたしの持ち歩くものは大きな荷物になります。なぜなら、咄嗟の時でも何とかしたいと考えているからです。

やや話がそれました。
高生研の全国大会に参加するということは、本来、その参加の手続きから考えて開催場所へ会場入りして学習するまで、たくさんの複雑な行程を経ています。「複雑性」が人間の行動にはつきものなのです。その「手間暇」が、PCの前に縮こまっているのが今の状況です。

どうでしょう、あたかも小説などの単行本を開くようなつもりで、「オンライン全国大会」に参加してみては? PCでのトラブルも物語の1つなのです。きっと仲間の参加者が助け船を出してくれます!

安藤

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果たして何を決意すべき時なのか

疲れの原因

最近、やたら疲れてしまう。
理由ははっきししている。緊急事態宣言と称され、休校措置が執られ、
学校現場は県教委の号令のもと、オンライン授業に取り組むことになった。
「オンライン授業」は、インターネットを介して自宅と学校とで教師と生徒が
双方向で授業に取り組むことを意味する。
聞こえはいいが、その為の通信機器は生徒自身が持つスマートホンで通信費は
保護者が対応することになる。
自宅にインターネット回線が引かれていない家庭は、携帯通信網を直に使い
学校のオンライン課題に取り組まなければいけない。前提なき個人負担が強いられている。

「しかたがない」で蹂躙

たちが悪いのは、「しかたがない」でいくつものことが蹂躙されていくことだ。
「生徒らはほとんどがスマートフォンでの対応しかできない。」「しかたがない。やらないよりましだ。」
「教師側から送っている画面に応答してこない!」「しかたがない。そんなに高いレベルは求めていない。」
「生徒たちのスマートフォンにどう映っているか分からない!」「しかたがない。その解説を示している余裕も時間もない。」
「オンライン授業で課題の提出の方法が教師も生徒も分からない!」「申し訳ないが、自分たち教員でその辺りを探りながらやってくれ。」
「あなたは、オンライン授業に導入されたツールを使えるのか?今の現状が分かっているのか?」「しかたがない。やれる範囲でやってくれ。」
「それは、この日本社会のアベノマスクを配ってしまうのと同じじゃないのか?」「しかたがない。やらないよりはましだ。その国の中にある県の方針の一貫だ。」
・・・・・どうしても疲れるのだ。(応答は想像した仮定)

応答関係にない世界からの脱出

明確になってきたことがある。
応答関係をつくろうとしないところに、われわれが振り回されているからだ。
われわれは、ネット環境を多用するあまり、今までの日常にあった「自己複雑性」を喪失していっているという指摘がある。この「自己複雑性」は、人と会話するだけでも、会社に行って仕事の話をしたり、家に帰って家族と会話したり、場所と人を変え多様で複雑な日常があることを意味する。その複雑さが、ネット端末の前に喪失していくというものである。またこの喪失は、ストレス耐性をそぐ要因になるといわれ、疲れの原因の一つということができる。
ネット環境は、うまくいけば遠隔でのコミュニケーションができ、応答関係が結べるツールである。しかし、応答関係をリアルな世界でイメージしたとおりだと考えることはできない。日頃から、コミュニケーションが不得意な人は、仮想空間でも苦手な意識が働くだろう。ネット端末、情報機器、コンピューター、タブレット、スマートフォンというブラックボックス的道具がそれなりの壁として立ちはだかっている。ソフトの設計思想やインターネットの仕組み自体が、様々な目的で発展してきていることから、オンラインの取り組みが全て肯定されると捉えるべきではない。
コミュニケーションは互いに求めなければ成り立たないのだ。その為に「自ら意図し使える所はうまく使う」道具と見るべきだろう。

昔なかったものが照射する温故知新

コロナウィルスは、はっきり地球の空気をきれいにしてくれている。ウィルスは見えないが、都市封鎖などにより目に見えて世界の空気が澄んできている。間違いなく、星空が綺麗だ。
オンライン授業に取り組もうとする中であぶり出される様々な課題。これらは、リアルな世界のコミュニケーションのあり方を問うものである。
多様で複雑であるが故に、この世の中は価値が生まれ、そのこと自体が尊い。
教育のあり方、オンラインを含めたコミュニケーションのあり方を考えるまたとない機会だと捉えるべきではないだろうか。

大会グループ  安藤誠也  2020/5/12

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私たちにできることはなにか

私の勤務校は、予定通りの日程で新年度が始まりました。
同じ県内でも、開始を遅らせた県立高校がある中で、かろうじてその区割りから外れたのでした。
予定通りといっても、学年によって時間をずらしたり、集会を教室待機の放送に切り替えて実施したり、マスクや3密回避、それなりの感染症対策を織り交ぜながら日程をこなしています。
今日は、対面式(!?)も放送で行われました。生徒会長と1年生の代表生徒との放送による挨拶を全校生徒が聞くものでした。
クラブ紹介はなくなり、例年、1年生だけ体育館に集めて行われていたものでし
た。今日はそうそうに放課にされた後、クラブをやっているところを1年生が見
て回る形式が取られました。所々で生徒会執行部が立って、案内するのでした。
吹奏楽部は中庭に繰り出し演奏。卒業式や入学式で発揮できなかったものを目一杯発散しているようで、美術室の窓からその賑わいが聞こえてきました。
ベランダから覗くと山岳部がテントを張るデモンストレーションをやるなどしていて
「外とはいえ、やや密集では・・?」と少し水を差す感覚がありつつも、「高校
らしい風景だなぁ〜」と見守る感情がありました。

「ホントに晴れて良かったですよ。」と生徒会顧問の先生。

隣の県や都会では、こんな風景とはほど遠い状況である事を思い浮かべてしまいます。
目の前の生徒や学校の風景を見つつ、とりまく世界やこの先のことにどうしても気が行ってしまいます。

皆さんの学校の風景は今どうなっていますか?

2020年4月9日 みえ あんどう


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静岡高生研の春ゼミ兼東海ブロックゼミに行ってきた

よく晴れた3月21日(土)
静岡の三島で行われた静岡高生研の春ゼミ兼東海ブロックゼミに行ってきました。
三重から静岡まで車で片道3時間あまり。大きな雪の富士山がお出迎えをしてく
れました。
新型コロナウイルスの関係で開催するかかなり熟慮されたようですが、
「積極的には誘わなくとも、やることはやろう!」ということで予定通り開催し
たそうです。
10時から始まった午前中の「入門講座」は、席替えをクラスの取り組みとして
大事にするHR実践レポートを読み解きながら班討議を重ね、HRづくりの視点
について考えていきました。
午後は、初担任のHR実践レポートの実践分析。
誰とでも気軽に会話ができるようにという思いを持ってHRをつくっていこうと
班編成を取り込みながら進める実践でした。実践者の思いが明確で、課題はない
ことはないが役職のある生徒の話を担任が受け止めながら進めている点は大切と
いう意見が出ていた。
なんと6人が初参加者ということで合計20数名の参加。
静岡高生研の人たちが用意したお昼のおにぎりやパンをタダでもらい、お菓子や
飲み物もたっぷりと用意されていて、至れり尽くせりの学習会に参加で、ほっこりできました。

みえ@安藤

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道楽と勉強と仕事 その3「教育の仕事と高生研」

こんなことを考えることがあります。
「教師の振るまい方が次の過労を生んでやしまいか?」と。

私はそれなりにやりがいを持って、教師の仕事にあたれていると思っています。クラブの指導についても全体的な仕事のバランス、重点の置き方を考えて、立ち振る舞っているつもりです。それは、教師の裁量を活用して、効率化した仕事の取り組み方の結果といえます。
職場によってはまったくそんな感じに振る舞えない(それぞれの教師の裁量範囲が狭められている)ことも多いでしょう。それでも、その狭い裁量の範囲で教師の仕事を工夫するのではないでしょうか。
「子どもたちを前にすると頑張ってしまう。」
教職を志したものは、この感覚が大なり小なりあると思います。そうしたモチベーションが高まることが、教師の力量を高めていく切っ掛けになることも間違いないでしょう。

生活指導を「生活に指導される」と読むとき、教師自身の仕事を問い直す課題が見えてきます。この3回の連載のタイトルに私が辿り着いた理由です。
ワークライフバランスという言葉がありますが、そこには仕事の中身、生活の中身を規定せず、バランスをとることが目につきます。仕事を充実させると生活の質を落としたり、逆に生活の質を上げるためには金銭的に立ち行かなくなったり、そのバランスをとることをどんなものでどうやって支えるのか示されていない気がします。仕事の中身、生活の中身を示したり、このバランスをどうやってとっていくかという個々人の思想性みたいなものをどう考えさせていけばいいのでしょう?。多くの場合教えているのは教師であったりします。時間的な制約だけでなく、生き甲斐や現場で起こるトラブル、健康状態を克服していけるような考え方を私たちは子どもたちにどこで学ばせているのでしょうか。

また一方、成果達成主義的な現場、ゼロトレランス的な現場で、疲弊していく教師がいることについて私たちはどう見つめて行動していくいくべきか。
高生研の場でこそ、そのいくつかの答えを見つけ出す必要性があるのではと感じています。
(おわり ご意見ご感想をお待ちしています )    堂々庵

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道楽と勉強と仕事 その2「道楽と高度プロフェッショナル制度」

「働き方改革法」が成立しました。
その1で書いた「独りブラック」をつぶやいていたOさんは、法案の中にある「高度プロフェッショナル制度」をとりあげ、「個人個人の仕事へのこだわりを経営者側が搾取していく構図」と指摘されていました。法案から削除はされましたが「裁量労働制」などもその構図を如実に実現するものであるように思います。
私は以前から、教師の仕事について考えてきました。熊沢誠さんの講演をお願いしにいったときからこのテーマと職業教育でした。教師の仕事はやればやるだけ更に仕事が増えるのではないか? また、中途半端にやっていても自分が本当にやりたい(教育という)仕事ができないのではないか? そもそも教師にとっての研修とは仕事なのか何なのか? 教職調整手当の名の下に必要以上に働き過ぎていやしないだろうか?
変な話、高生研に関わる中で、よりいっそうそのことを考えるようになったように思います。

以前(20年ぐらい前)、私の子どもがまだ小さいとき、高生研への学習会への参加は家族の憩いの時間に少なからず影響を及ぼすもので、それらのいくつかの誘いを断っていたこともありました。しかし、年を重ねるごとに、教師としての未熟さを少しでも改善できるのならという気持ちが勝ってきました。プライベートの中に高生研の存在意義を確保できるようになってきました。

高生研の先輩の中には「私は妻に『高生研は俺の道楽』と言っている」という話を聞きいたことがありました。自己研修の場を「道楽」と考えるというのはある意味新鮮で、私も同じことが言えるかなぁと真剣に考えたことがありました。
この「道楽」という言葉は、好きなことを追求することで生じる時間的、社会的な緊張感をほぐす意味があるようには感じています。それでも、私にとっては、高生研で勉強することは道楽といいきれない感覚です。もし、道楽と言ってしまうと、教師という仕事までも道楽になるのではないか?そう思えてきます。

「高度プロフェッショナル制度」のモデルは教職調整手当を名目に長時間時間外労働をしている教職ではないでしょうか。しかも、給与水準、時間水準は遙かに低レベルのモデルです。昔教師は「聖職者」という意味あいが社会に定着していたと聞きます。それはある意味教師の裁量を増やしていって仕事の内容や量をも増やしていったといえると思います。
今はどうでしょう。以前あった裁量の範囲は狭められていることは確かでしょう。更に免許更新制や指導要領の更新でほぼ強制的な研修がじわじわと進められ、教師にとって本来的な研修を選ぶ時間やモチベーションがおちていると思います。あらためて、教師の研修の内容が問われてきているように思います。                  (その3に つづく)

堂々庵

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道楽と勉強と仕事 その1「独りブラックとクラブ」

これから過労のことについて連載で書こうと思います。

昨今、働き方改革とその中身について国会で議論されていて自民党案に決まってしまうかも知れない状況ですが、「働くこと」は「生きる」ことと「人が求めるもの」を考えると何かと杓子定規に行かないものであると思えてきます。

ある先生が「教材研究をやっているとどんどん時間が要って、『独りブラック』の状態だ」と口にしていました。
なんか、この「独りブラック」という言葉、他人事に感じませんでした。

私自身は、教材研究で「独りブラック」の状態にはなっていないつもりですが、クラブ指導では生徒たちの追求するものに関わるがあまり土日も出てまさにその状態です。決して嫌々やっているのではなく、多少の理想を求めての関わりです。傍目から見たら恐らくいきすぎていると感じるだろう時間的の関わり方をしています。
教員のクラブ指導はボランティアという位置づけです。私もそのボランティアとしてできる範囲でやってるつもりです。私は美術部をみていて、時間の折り目切り目はわきまえていますので、決して無指導的に関わっているわけではありません。ただ、制作に向けての試行錯誤や逡巡する生徒に対して、待つ時間も必要だったりするのです。
これは高生研で時々耳にする「自分で自分を引き受けていく」ステップではないかと・・。

一方、こんなこともあります。
学校に来れなくなる生徒に対して、担任としてどうするのか。
私の答えはまったく煮え切らないものです。
時として関わり、時として見守り、それぞれ違って当たり前。ただ、前に踏み出す勇気はどこかで引き出したい。
そう考えています。
実際やっていることとしては、親や本人と連絡をとったり、家庭訪問したりです。

ふとこんなことを考えます。
学校に来れなくなった生徒に対して、ボランティア的に関わったらどうだろうと。
その生徒にとことん興味を持って、それこそクラブで関わる生徒と同じように、どこか手応えのある関わりを探っていく。そうすれば、前に進むのではないかと。

しかし、そこに踏み出せません。教師の時間(教師の労働時間)を考えたとき、それを超えない範囲でとことんそのボランティアを追求することは、ボランティアの域を超えています。強いていえば、クラブ指導とこちらと天秤にかけてしまい、より手応えがある過労を選ぶのです。             (その2に つづく )   堂々庵