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道楽と勉強と仕事 その1「独りブラックとクラブ」

これから過労のことについて連載で書こうと思います。

昨今、働き方改革とその中身について国会で議論されていて自民党案に決まってしまうかも知れない状況ですが、「働くこと」は「生きる」ことと「人が求めるもの」を考えると何かと杓子定規に行かないものであると思えてきます。

ある先生が「教材研究をやっているとどんどん時間が要って、『独りブラック』の状態だ」と口にしていました。
なんか、この「独りブラック」という言葉、他人事に感じませんでした。

私自身は、教材研究で「独りブラック」の状態にはなっていないつもりですが、クラブ指導では生徒たちの追求するものに関わるがあまり土日も出てまさにその状態です。決して嫌々やっているのではなく、多少の理想を求めての関わりです。傍目から見たら恐らくいきすぎていると感じるだろう時間的の関わり方をしています。
教員のクラブ指導はボランティアという位置づけです。私もそのボランティアとしてできる範囲でやってるつもりです。私は美術部をみていて、時間の折り目切り目はわきまえていますので、決して無指導的に関わっているわけではありません。ただ、制作に向けての試行錯誤や逡巡する生徒に対して、待つ時間も必要だったりするのです。
これは高生研で時々耳にする「自分で自分を引き受けていく」ステップではないかと・・。

一方、こんなこともあります。
学校に来れなくなる生徒に対して、担任としてどうするのか。
私の答えはまったく煮え切らないものです。
時として関わり、時として見守り、それぞれ違って当たり前。ただ、前に踏み出す勇気はどこかで引き出したい。
そう考えています。
実際やっていることとしては、親や本人と連絡をとったり、家庭訪問したりです。

ふとこんなことを考えます。
学校に来れなくなった生徒に対して、ボランティア的に関わったらどうだろうと。
その生徒にとことん興味を持って、それこそクラブで関わる生徒と同じように、どこか手応えのある関わりを探っていく。そうすれば、前に進むのではないかと。

しかし、そこに踏み出せません。教師の時間(教師の労働時間)を考えたとき、それを超えない範囲でとことんそのボランティアを追求することは、ボランティアの域を超えています。強いていえば、クラブ指導とこちらと天秤にかけてしまい、より手応えがある過労を選ぶのです。             (その2に つづく )   堂々庵

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