ワークショップ形式の研修会は、教育現場に限らず多くの分野で行われている。私が教師に成り立ての頃は、ワークショップという言葉も知らなかったのではないだろうか。そんな、体を使った(参加者の活動を意図的に盛り込んだ)分科会は、いつの間にか市民権を得ている。もちろん、その効果に理由があっての内容となっているのだが、大方、参加者はその進行にあまり口出しできないことになっている。ファシリテーターといわれる<介入・促進者>があらかじめ描いた内容に即する進行にならざるをえない。
私は、どうもこの「とってつけられたような」進行が苦手だ。「はい、今からお互いに<話し手>と<聞き手>に分かれて、自己紹介をしあってください!」とファシリテーターは言う。まあ、それなりに従い、自己紹介をやり合う。特段、嫌な感じもしない。むしろ、真剣に相手に<傾聴>されるので安心感はある。問題は、その先の話し合いのテーマである。そこにはどうしても「とってつけた感」丸出しの内容になってしまう。
高生研では、大阪を中心とした「おまかせHR研究会」が、<行商>と称したワークショップを全国各地で展開している。私もそれには参加したことがあるのだが、このワークショップは上記の「とってつけた感」がかなり薄まっている。そもそも、話し合いの内容が教師に卑近なものであるからだろう。ただ、「薄まっている」というのは、「とってつけた感」が0にはなっていないということだ。つまり、その会で身につけようとする参加者の目的と、運営側が狙う意図と、ずれがあったり、あるいはずれがなくても狙いが見えなかったりすることによるものだと思う。
そもそも私は、身を任せるということが苦手な人間なのかも知れない。
さて、前置きが長くなった。久田さんが提起する問題別の分科会である。
想定されているのは、教師の教室での身のこなしや、生徒間での話し合いがどのように成立するのかを深めたいと考える参加者だろう。紀要原稿を見るに、ワークショップのような進行場面があるものの、すべてがそのワークショップに終始するものではない。むしろ、その合間や後に行う考察や協議の題材になるもので、「とってつけた感」が(仮に)あったとしてつきまとうものではない。さらに言えば、そのワークショップは、極めて旧来の高生研の分科会進行的な要素を持っているのではないかと感じた。古いというのではない。アプローチや進め方は決して押しつけがましくなく、行動心理にも相応ているものだと思う。それはあたかも、「おまかせHR研究会」がHow toといいながらワークショップの中から100連発を引き出していく手法にも通じているし、討議づくりを訓練論の理論の中から紡いでいるようにも感じる。
真価は全国大会にて明かされます。多くの方の参加をお待ちしています。
<文責 アンドウ@みえ>