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道楽と勉強と仕事 その2「道楽と高度プロフェッショナル制度」

「働き方改革法」が成立しました。
その1で書いた「独りブラック」をつぶやいていたOさんは、法案の中にある「高度プロフェッショナル制度」をとりあげ、「個人個人の仕事へのこだわりを経営者側が搾取していく構図」と指摘されていました。法案から削除はされましたが「裁量労働制」などもその構図を如実に実現するものであるように思います。
私は以前から、教師の仕事について考えてきました。熊沢誠さんの講演をお願いしにいったときからこのテーマと職業教育でした。教師の仕事はやればやるだけ更に仕事が増えるのではないか? また、中途半端にやっていても自分が本当にやりたい(教育という)仕事ができないのではないか? そもそも教師にとっての研修とは仕事なのか何なのか? 教職調整手当の名の下に必要以上に働き過ぎていやしないだろうか?
変な話、高生研に関わる中で、よりいっそうそのことを考えるようになったように思います。

以前(20年ぐらい前)、私の子どもがまだ小さいとき、高生研への学習会への参加は家族の憩いの時間に少なからず影響を及ぼすもので、それらのいくつかの誘いを断っていたこともありました。しかし、年を重ねるごとに、教師としての未熟さを少しでも改善できるのならという気持ちが勝ってきました。プライベートの中に高生研の存在意義を確保できるようになってきました。

高生研の先輩の中には「私は妻に『高生研は俺の道楽』と言っている」という話を聞きいたことがありました。自己研修の場を「道楽」と考えるというのはある意味新鮮で、私も同じことが言えるかなぁと真剣に考えたことがありました。
この「道楽」という言葉は、好きなことを追求することで生じる時間的、社会的な緊張感をほぐす意味があるようには感じています。それでも、私にとっては、高生研で勉強することは道楽といいきれない感覚です。もし、道楽と言ってしまうと、教師という仕事までも道楽になるのではないか?そう思えてきます。

「高度プロフェッショナル制度」のモデルは教職調整手当を名目に長時間時間外労働をしている教職ではないでしょうか。しかも、給与水準、時間水準は遙かに低レベルのモデルです。昔教師は「聖職者」という意味あいが社会に定着していたと聞きます。それはある意味教師の裁量を増やしていって仕事の内容や量をも増やしていったといえると思います。
今はどうでしょう。以前あった裁量の範囲は狭められていることは確かでしょう。更に免許更新制や指導要領の更新でほぼ強制的な研修がじわじわと進められ、教師にとって本来的な研修を選ぶ時間やモチベーションがおちていると思います。あらためて、教師の研修の内容が問われてきているように思います。                  (その3に つづく)

堂々庵

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