こんなことを考えることがあります。
「教師の振るまい方が次の過労を生んでやしまいか?」と。
私はそれなりにやりがいを持って、教師の仕事にあたれていると思っています。クラブの指導についても全体的な仕事のバランス、重点の置き方を考えて、立ち振る舞っているつもりです。それは、教師の裁量を活用して、効率化した仕事の取り組み方の結果といえます。
職場によってはまったくそんな感じに振る舞えない(それぞれの教師の裁量範囲が狭められている)ことも多いでしょう。それでも、その狭い裁量の範囲で教師の仕事を工夫するのではないでしょうか。
「子どもたちを前にすると頑張ってしまう。」
教職を志したものは、この感覚が大なり小なりあると思います。そうしたモチベーションが高まることが、教師の力量を高めていく切っ掛けになることも間違いないでしょう。
生活指導を「生活に指導される」と読むとき、教師自身の仕事を問い直す課題が見えてきます。この3回の連載のタイトルに私が辿り着いた理由です。
ワークライフバランスという言葉がありますが、そこには仕事の中身、生活の中身を規定せず、バランスをとることが目につきます。仕事を充実させると生活の質を落としたり、逆に生活の質を上げるためには金銭的に立ち行かなくなったり、そのバランスをとることをどんなものでどうやって支えるのか示されていない気がします。仕事の中身、生活の中身を示したり、このバランスをどうやってとっていくかという個々人の思想性みたいなものをどう考えさせていけばいいのでしょう?。多くの場合教えているのは教師であったりします。時間的な制約だけでなく、生き甲斐や現場で起こるトラブル、健康状態を克服していけるような考え方を私たちは子どもたちにどこで学ばせているのでしょうか。
また一方、成果達成主義的な現場、ゼロトレランス的な現場で、疲弊していく教師がいることについて私たちはどう見つめて行動していくいくべきか。
高生研の場でこそ、そのいくつかの答えを見つけ出す必要性があるのではと感じています。
(おわり ご意見ご感想をお待ちしています ) 堂々庵