岩手の中さんから、担任している1年生の学級通信が届きました。そこには、次のようなクラスの生徒の作文が紹介されていました。
「3月11日、東日本大震災が発生しました。あんなに大きく長い地震は初めてでした。
発生してすぐに避難訓練通りの所に行きましたが、落石等の理由で、他の高い所へ逃げました。着いた瞬間、ものすごい音が聞こえ、土煙が上がってきました。町はもう海と化していました。津波の勢いがすごく、数メートル後ろまで水が押し寄せていました。周りの友だちの家はもうありません。自分の家は、津波とかけはなれた所に建っているし、家族も心配ありませんでした。周りの友だちは家族や家の心配をし、泣いています。自分だけ、一緒にその気持ちが分かってやれない事。すごく悔しかったです。
避難所は人であふれていました。電気もなく、静まりかえった避難所。人生で一番辛く、
暗い一夜を過ごしました。家族の無事の情報がたくさん入ってきました。しかし地震当日、
同級生の一人が欠席していました。安否情報もなく、何日経っても分かりません。その友
だちは亡くなりました。病院に行く途中で津波にあいました。79人という少ない大事な
仲間です。今までだったら、学校に行けば普通に会って、普通に話していました。普通に
学校に行けると思っていたし、いつもの毎日が続くと思っていました。地震がくるとも思っていなかったし、津波も数十センチので終わるだろうと思っていました。今回の災害で、当たり前のことが当たり前ではないという事がわかりました。
まだ避難所にいる人もいます。テレビや新聞などで報道されている事はほんの一部であ
り、苦しみ・辛さは伝わりません。経験した人にしか分からない辛さがあります。自分た
ちに出来る事を見つけ、取り組み、一生懸命生きていく事が、今生きている自分たちの使
命だと思います。」
この後に、中さんはこう記しています。千葉大学教育学部の藤川大祐教授は「大切なのは子どもの心のケアだけではない。被災地の現場と、社会とかけ離れた学校文化と。その落差を見た子は勉強する意味を問い直すに違いない。学校がどんなメッセージを発するかが問われている」と語っています。「おまえはどんな言葉を今、発するのだとこれほど厳しく鋭く問われている時はないのではないか。」と言うのはあさのあつこさん。今こそ教室で、思いを語り合いたい。そして、言葉を紡ぎ続けたい。私の願いです。
今回、岩手や宮城や福島の方々に、本当に心配していろいろ教えて欲しい、とお願いしていました。しかし、生徒が書いているように、「経験した人にしか分からない辛さ」があるのだ、と改めて感じました。そしてそこに勤めているから、「勉強する意味を問い直す」生徒に向かい、「どんな言葉を今、発する」のか悩む教師がいるのだ、と分かりました。私たちは、その重さに打ちのめされ、無力感を感じます。
市内で被災地の写真展が行われており、今日見ました。平日で誰もいない、説明する人もいない広めの空間に、被災地の写真や救助するボランティアの写真が掲示されていました。数の少なさもあり、単なる情報の提供を受けている感じがしました。やはり現地で、5感で体験するしかないのでしょう。そして、体験していない生徒に対し、どのように「言葉を発するのか」私たちも問われているのだと思います。
とらぬ狸@秋田
岸田です。大会で中さんの分科会の運営をします。
今日、4月16日に気仙沼に入った方を招いてのゲスト授業「報道の向こう側」をやりました。生徒は高2なので阪神淡路大震災の年に生まれたり、お母さんのお腹にいた世代です。地震から奇跡に助かったお母さんから4日後に生まれた生徒は、地震の専門家を目指しています。ご遺体の照合のため今回の大震災後現地入りした歯科医の方をお父さんに持つ生徒もいます。私の授業を聞きつけて、その生徒に手紙を託してくれました。
生徒たちは、初めは映像も見て無力感に囚われていましたが、授業後は「動く、とにかく動こう」と思ってくれたようです。
また、報道では津波被害のひどかったところとそうでないところの「被災格差」にまだまだフォーカスされていず、人とのつながりがきれてしまう心配もゲストの方としていました。
このクラスは理系で高大連携が盛んなコースです。
明後日は「核融合施設」の見学に行きます。まだ実用段階には遠いですが、もし可能になったら安全な代替エネルギーの候補に挙がるものとして、研修してきます。
中さんの大会レポートを読んで、うちの生徒にも本物に出会ってほしいと、ゲスト授業にしました。