東京のKです。2年前、私は退職し、再雇用(東京では非常勤教員といい、月の勤務が16日)になり、新しい学校へ異動しました。異動の回数は、現役時代から数えて5回目、定時制高校を異動しています。その経験から、私の異動の時の心構えを書きたいと思います。
1、生徒達は、私を教師と認めていません。人生の先輩とも思ってもいないのです。むしろ自分たちの方が、この学校では先輩と思っているのです。
2、ゆえに、最初から教師顔で生徒達に接しないことにしています。
3、人間的な関係をできるだけ早く作ることを心がけています。それが自分の精神的な安定につながっています。
以上を心がけて、新しい学校に勤めることにしています。最初の生徒たちとの関係には気を遣います。教職員との関係はあまり気を遣わないですむのが助かっています。
生徒達との関わりを持つには、授業が勝負・クラブ活動でも人間的な関係を
教師だから授業が勝負なのは当たり前ですが、新しい学校では特に重要になると思います。ここで信頼を勝ち取らないとまともな関係を作ってもらえないのです。
私は工業科の教師なので、座学(教室での授業)を2単位持つことになっていました。
どのような授業をしたかの一例を上げてみます。
私:「ここにアルミと鉄の丸棒があります。どちらが堅いかどうやって調べますか?」
生徒A:「たたいてみる。」
生徒B:「落としてみる」
などいろいろな意見がでてきます。最初の授業で私は、生徒達に「教室は間違える場所だ」「生徒が間違えなければ教師はいらない」と、間違えることは恥ずかしいという気持ちを打ち消すように伝えているので、わりと授業での発言はするようになっていました。
ここで、物理の仮説実験授業のまねをして、堅さを調べるため、プラスチックの筒(水槽用空気排出管)とパチンコ玉を用意し、それぞれの金属の上にプラスチックの筒を立て、パチンコ玉を同じ高さから落とし、その高さの予想をさせました。やはり、教室での実験と予想は生徒たちには新鮮であって、興味をもったようです。
そのあと、生徒達から「前回のような授業をしてくれ」と要望されることもあります。教科の教える内容の関係で、いつもこういう授業ができるわけではないですが、生徒達が理解しやすい授業を目指しています。その中で生徒達との信頼関係を作るようにしています。
月: 2012年4月
地方進学校の呪縛の中で
北国にもようやく春が訪れ、もう少しで桜が咲く季節になりました。豪雪の影響でまだ日陰となるところでは雪が少し残っています。学校のグラウンドも雪解けが遅く、高校野球も1週間ほど春の大会が遅れました。
今年、30年目の教師生活を迎えることになりました。地区2番手の進学校の3年担任。数学の主担当。長男も大学受験、二男は高校受験と精神的に追い込まれているというのが実情です。国公立大学に何人入るのかを問うのは邪道だと多くの人は言うでしょうが、実際にその渦中にいると、土曜講習や平常講習など地方の進学校ではせざるを得ないジレンマの中にいます。
ひとりひとりの進路を達成するために、どんなことができるのか。学年主任を中心に7人の担任ががっちりとスクラムを組み、ひとりひとりの生徒を大切に3年間育ててきました。今年、新任で来た校長は20代の時に、リーダー研修会でともに生徒のために話し合った方。高生研の話をすると笑顔で対応してくれました。
今年も学級通信、学年通信、そして学級ブログで生徒たちや保護者のかたにいろんな情報を伝える取り組みをしています。
また、授業や学年集会で積極的に生徒が発言し、行動を起こせるようなしかけも考えています。ぴらいち学習会をAO入試や推薦入試などの指導にも活用できないかも模索しています。部活動もバドミントン顧問になって20年目の節目。進学校であるが故の練習時間の少なさの中で、昨年は県ベスト8。今年はさらにその上を目指しています。
30年目の教師生活を経て高生研での学びが今こそ必要と考える今日このごろです。
新クラスになっての最初の行事は5月の炊事遠足です。3年連続となる今年の生徒たちの手料理を今から楽しみにしているところです。 (よしだ)
全国大会回想記 その①
大阪高生研の西村です。これから、月一回登場予定です。でも、いきなり期限を失念していました。
さて、何を書こうかと考えたのですが、全国大会のブログなので、わたしが参加した全国大会をいくつか回想してみたいと思います。わたしがはじめて参加した全国大会は1991年の京滋大会でした。はじめて都市型と銘打った大会だったそうで、それ以前の宿舎自治を体験していないのが残念でなりません。
この大会、同じ担任団だった国語の先生に誘われて、新任の家庭科の先生と一緒に3人で参加しました。その国語の先生は前任校で、現大阪高生研代表の中村さんと一緒だったのですが、この大会で出会っているはずの中村さんの印象がなぜか皆無なのです。
この大会で一番印象に残っている方は、当時の大阪高生研の事務局長で代表もされた、現東洋大姫路高校の辻先生です。辻先生はわたしと同じ生物の教師で、この大会の基調に「共生」という生物用語が使用されていて、いまでは何の違和感もなく使っているこの言葉が、そのときは訳が分からなくて辻先生とかなり議論したことを覚えています。
また、印象に残っているできごとは、夜の交流会で大阪高生研の企画として「夜の加茂川河畔で飲む」というのをやったことです。交流会とはいえ、現地に着いてからの思いつきのような企画で(間違ってたらごめんなさい)、さらに大阪だけではなく全国の方がその企画に参加されるというのを目の当たりにして、なんとフレキシブルな会だという印象を持ちました。
基調をはじめ、使用されている専門用語は難しく、参加した分科会も難解でほとんど意味が分かりませんでしたが、全国からたくさんの先生が参加されているという熱気と、辻先生はじめ大阪高生研の先生方の優しさに絆され、わたしの高生研通いがスタートしました。(つづく)
「ひとりの教師の回想」
静岡の絹村です。
今日は本(私家版冊子)の宣伝です。
静岡高生研では、この夏、全国の動きに併せ、高生研静岡支部から静岡高生研に
組織替えをします。
それを記念して、50年前に、静岡高生研を立ち上げ、静岡の民主教育に力を尽
くした故益田忠郎先生の遺稿を載せた冊子の完全版をつくりました。以下は、
発刊にあたっての拙稿です。
お読みいただき、興味のある方は、声をかけてください。
限定100部印刷で一冊1500円です。(ちょっと高いですがほぼ原価です。)
創成期の高生研 静岡支部の歴史(全)
-ひとりの教師の回想-』発刊にあたって
静岡高生研(高生研静岡支部) 絹村俊明
高生研静岡支部機関誌・『静岡の高校生活指導』に故益田忠郎先生が連載執筆さ
れていた「静岡支部の歴史」第1回から第13回までをまとめて一冊の冊子と
して発刊したのは、今から遡ること22年前、1990年、先生のまだご存命中
のことでした。今回、お亡くなりになる1996年までの連載第14回から第20回
までの分を加えて新たに『創成期の高生研 静岡支部の歴史(全)
-ひとりの教師の回想-』として発刊することになりました。
ことの起こりは、県常任委員会の中で、高生研静岡支部から新たに「静岡高生
研」へと生まれ変わるための熱心な議論の中で、どういう組織をつくりど んな
研究活動を目指すのか、それを歴史の中からも学ぼう、という意見が出たことで
あったと記憶しています。
全国高生研は、本年2012年夏から新しい高生研へと移行します。研究活動の
スタイルを時代に即してつくりなおし、持続可能な
研究組織として新たに立ち上げるのです。それに合わせてそれまで「支部組織」
であった静岡支部も全国高生研と協同しながらも独自のスタイルを持っ た地域
高生研として歩みだします。そうした時代の転換期において、私たちはこれまで
の研究活動をどう総括し、どう再構築していけばいいのか戸惑 い、迷いまし
た。そんなとき、私たちにとってひとつの道標になったものが、益田忠郎先生の
「支部の歴史」です。
温故知新。益田先生は、今でもその抑制された、淡々とした文体で高生研の実践
研究活動のあり方を熱く私たちに語りかけてきます。
1963年、高生研発足のときから益田先生は静岡高生研の中心として支部活動
を支えてこられました。この冊子は静岡支部の歴史であると同時に静岡 県の教
育史の1部でもあります。さらには、創成期の全国高生研の研究活動のあり様が
わかり、またそれを支えた活動家たちの奮闘の息使いが聞こえて くるような、
高生研の歴史を辿る上で大変貴重な資料となっているということも見逃せません。
県常任委員会において、この「支部の歴史」の完全版発刊にあたって学習会を
持ちました。その時、参加者が共通して感銘した箇所は、意外にも高生研の積
み上げてきた生活指導の理論、サークル活動のあり方についてではなく、自発的
な個人が集い生活指導を科学しようとする研究団体にはふさわしくないような
益田先生の次のことばでした。
「情と理とは微妙に絡み合って、互いに補完していく」、「高生研のように理に
よって成り立っている組織でも、情による結びつきを大事にしていきたい」
益田先生は、わからないことを「わからない」と平気で言える方でした。そして
どんな人に対しても対等・平等な関係をつくろうとしていました。それは、益
田先生が他者と自身への「信頼」を、生活指導を学ぶ中でつくりあげてきたから
ではないでしょうか。
教育運動と「民主的人格」の現代的あり方を益田先生のこの冊子から皆さんとと
もに学び合えたらと思います。
最後にお亡くなりになる直前、支部通信に載った益田先生のことばを紹介します。
「社会がおかしい限り高生研は必要である。」
新高生研は、「頑張らない」
消閑亭です。
きょう4月21日に、熊本高生研の人たちが『高生研全国通信』第161号(春号)の発送作業をして下さったと思います。印刷、製本、袋詰めとけっこう面倒な作業だったことでしょう。
161号の版下は私がつくりました。
この『高生研全国通信』をつくるのもあと1回だけとなりました。
『高生研全国通信』は、1997年4月、ちょうど100号から私がつくり始めました。それまでは『高生研会員通信』という誌名でした。
この『高生研会員通信』は、まだパソコンがあまり普及してなかったこともあって、ちゃんと印刷所に頼んでつくっていました。ミニ『高校生活指導』のようなもので、それなりにかっちりしていて、編集は大変な作業でした。そのために、衰退期に入った高生研としては、きちんと定期的に発行することができなくなりつつありました。
『高生研全国通信』が発行される少し前、会員数の減少を食い止めるために、会費の口座引き落とし制度を導入しました。かなり異論もありましたが、最終的には合意されました。
反対理由の主なものは、「会費を手渡しすることで人間関係が維持される」というものでした。一理ある意見です。ただ、情勢分析はできていない意見でもありました。引き落とし制度を導入しなければ、今ごろ高生研は、あっても名ばかりの団体に落ちぶれていたと思います。
多少の軋轢を覚悟して引き落としで制度を導入した手前、会員通信くらいきちんと年4回、季刊で出さないとまずいだろうと思いました。それで、私が手づくりで『高生研全国通信』として発行し始めたのです。「全国」通信としたのは、「会員」通信では、地域高生研の会員通信と紛らわしいからです。
その第100号は、NECのワープロでつくった縦書き12ページのものでした。あのころのワープロは、それなりに日本語の紙面をつくるには適していたとみえ、いま見てもきれいな紙面です。
私はやると決めたら、けっこう頑張って続けます。民間教育運動を担っていた人はみんな言っていたことですが、「継続は力」です。とにかく、内容なんか二の次で、定期的に続けること、これが大事です。ということで、数号をほかの人が書いたものの、ほとんど60号、年4回つくり続けました。
疲れました。あと1号でやめられるかと思うとほっとしています。
こういうことはどこかで区切りをつけなければなりません。特に、退職教師というのは、もう生徒の顔を見ていないのですから、通信をつくっていても、単なる作業員に過ぎません。教師をやっているからこそ、こういうことも楽しいのです。
現役教師も、退職教師に頼っていてはいけません。だから、高生研は、いったん解散すべきなのです。私は、誰が何と言おうとも、東京大会で高生研はいったん解散だと思っています。
戦後民間教育団体は、歴史的使命を終えたことを自覚すべきだと思います。「継続は力」などと古いことを言っていた人たちは、退場すべきときです。
そして、こういう決意が、幸いにも、まったく新しい組織形態をもった、新高生研を生んだと思います。
思えば、戦後民間教育運動も男社会の申し子でした。「何が何でもやりきる」みたいな発想で、家事と育児を妻に任せて夜遅くまで活動に邁進、これでは女性会員が少なくなる訳です。
新高生研は、みんなが平等で、変な権威をつくらず、軽やかに、誰でも参加できる、そういうものになっていけるような気がしています。
頑張らないで下さい。一銭も儲からないのですから。
楽しいと思える、やれる範囲のことを(なんて言うことも、余計なことでした)。
交流会の空間づくり
東京大会は、語らいの生まれる空間です。
たとえば、1日目、8月10日の交流会では、
ゲストを迎えて自由に話したり、演ってみる交流が組まれています。
今日は、その一つをご紹介しましょう。
8月10日(金)夜の前田浪江主催交流会
「セクシュアリティの多様さについて知ろう」
講師:渡辺大輔(千葉大学他・非常勤講師)
自分の周りに、性同一性障害や同性愛者などのセクシャルマイノリティがいると
考えたことはありますか?性自認と体の性は一致していて、異性愛が当 たり前
だと思っていませんか?無意識に生徒へ異性愛を強要したり、ホモネタを笑う生
徒をそのままにしていませんか?中には男女別の制服や男女別に 行う体育の授
業に違和感を持っている人がいるかもしれません。
セクシュアルマイノリティ教育の専門家であり、ご自身も当事者である渡辺先生
のお話を聞いて「性」のしばりから自由になる第1歩を体験しましょ う。もち
ろんジェンダーの問題も多いに絡んでくる交流会になるはずです。
開始30分前くらいから、ゲイフレンドリーな曲を聴きながらお茶会も開催しま
す。(夕食は各自で)全国津々浦々から届いた(届けばですが)美味し いお菓
子をいただきながら食後のデザートを楽しみましょう。
この他に、岸田さんと田中さんが「竹内先生のお話を聞く会」
山田さんと首藤さんが「エンパワーメント・聴く力」
船山さんと小柴さんが「居酒屋で自分の夢と高校の幸せを語る会」
船橋さんが「渡部謙一さんと語る東京の教育改革」
森さんと岡村さんが「田村哲樹と語る会」を企画しています。
当日までこの指止まれ方式で交流会を参加者が作れます。ご一緒に語らいの生まれる空間を作っていきましょう。
細腕三学年主任奮闘記③
(前回の続き・生徒総会にて)
このままフロアの生徒からカーディガン着用について学校側に何も反論がないのか?と思った時、
なんと司会席に座っていた生徒会執行部の女の子が「ちょっと意見いいですか?」と手を挙げました。僕は少し驚きました。その子は普段とても物静かで、人前で、しかも全校生徒・職員の前で意見を
言うようなタイプではなかったからです(僕が勝手にそう思っていただけかもしれませんが)。
その子はしっかりとした口調で、
① セーラー服がどれだけ寒いのか、女性教職員は分かっているはずであるという事
② 「学校を休まないように」と先生方は言うが、寒さを防ぐ事も学校を休まないようにする
自己管理の一環であるという事
③ カーディガン着用禁止になった理由の一つに、「指定外の色のカーディガンを着ている生徒
がいた」というものがあったが、少なくとも自分たちが入学してきた頃、三年生の先輩方に
赤や緑、ピンクのカーディガンを着ていたのを見たが、先生方がそれを注意・指導している
場面は無かったという事
④ 入学の際にもらった生徒心得には、「高校生としてふさわしいカーディガンかジャージの
いずれかは着用してよい」と書かれていて、このような曖昧な表現では私たち生徒が間違った
着方をしていても(生徒同士が)お互いに注意しあう事が出来ない事
という事を中心に、理路整然と意見を述べました。体育館中がシーンとなって聞いてきました。
さらに、こうも述べました(以下は全文を記載します)。
これを言い訳にするわけではありませんが、そもそも、校則自体が当時の私たちにはあまり
浸透していませんでした。
カーディガンが禁止になった原因は、確かに校則を守らなかった私たちにあります。
しかし、違反していることを知っていて見逃したりする先生方もいらっしゃいましたし、
このような指導不足も原因の一つだと思っています。
当時よりはっきりと色の指定や着かたについて指導していただけたなら、今の私たちなら守る
ことが出来ます。
私たち生徒と先生方がお互いに良いと思えるような、カーディガンについての校則を新たに作り
直していただけないでしょうか。どうか宜しくお願いいたします。
見事でした。彼女が言い終わってしばらくすると、ごく自然に全校生徒から拍手が起きました。
この高校に赴任してから、生徒総会で見る初めての光景でした。僕も思わず拍手しました。
この意見を受けて、生徒指導部長が再び登場し、「意見は分かりました。カーディガン着用については生徒指導部だけではなく、職員全員で決めるものなので、今すぐに返事は出来ません。
意見を引き取って職員で話し合い、その後どうするか決定してみなさんに連絡します」と告げました。
その後、職員会議で話し合い、「女子は指定ジャージの下から・男子は学ランの下から・色は
紺や黒系統のみ」という条件つきで、それに反する場合は『預かり指導』になる、と決まりました
なおかつ「お試し期間」を設けて、その期間中に「累計15人以上」の違反者がでたらカーディガン着用は認めないということも決まりました。
生徒が要求を出し、それを教職員が受け止めて、校則を変えるきっかけになった場面でした。
ただ、この話には後日談があります。(またまた次回に続く………………)
沖縄高生研 照屋
「“新高生研”って何が新しくなるんだろう?」
滋賀の藤本です。現在、新高生研仮事務局長の任にあります。
1月31日付けの久田さんの記事(「新高生研に願う・その1…単行本を出そう」)に応答します。「”新高生研”って何が新しくなるんだろう?」と久田さんは問います。それについてのあくまで私の個人的な考えですが、このブログに書くことで私なりの考えをまとめてみたいと思います。
現在の高生研は、会則で見る限り、確立した理論を一般会員に普及していく組織の作りであったということができるのではないでしょうか?それに対して新高生研は、さまざまな現場の実践にもとづきながら新たな理論を作っていく組織の作りであるということができるのではないでしょうか?
そのように考える理由を現会則にもとづいて述べます。
現在の高生研には常任委員会という機関があり、「常任委員会は、本会の最高指導機関である」(会則の5の(2))とされています。いわば常任委員会と一般会員には指導する者と指導される者という関係があるということでしょう。集団づくり論という確立した理論を常任委員会が指導し、一般会員はそれを指導されるという関係が会則の前提にあったのではないでしょうか?
また会則の7には「本会員の権利と義務」として次のような規定があります。
(1)会員は各県毎に支部を結成する。
(2)機関誌の普及につとめる。
(3)会員拡大につとめる。
(4)機関誌が送付される。
(5)各種例会に常任委員の派遣を要請することができる。
この5つのうち、(1)から(3)は会員の義務でしょう。また支部という表現からも中央の組織と地方の支部という上下関係(上部組織と下部組織)が想定されています。
(4)と(5)は会員の権利ということができると思いますが、その権利にしても、みんなで議論して理論をつくっていくという権利というよりも、先ほども言ったように最高指導機関としての常任委員会(常任委員)から理論を与えられる権利と読み取れます。
このように「本会員の権利と義務」を見ても、確立した理論を常任委員が一般会員に普及していくことを想定した組織の作りであったということができるのではないでしょうか?
しかし生徒(若者)の現実は、集団づくり論で上手くいくような状況ではなくなってきました。生徒(若者)の現実をもう一度捉え直し、実践と理論を問い直す必要が出てきたのだと思います。そして組織形態自体が、現場の実践にもとづいてたえず理論を作り出すことのできる組織に再組織される必要が出てきたのではないでしょうか?
新高生研では、支部はつくりません。もちろん各都道府県ごとの高生研は存在しうるでしょう。それは各都道府県の高生研会員がつくる都道府県単位のサークル組織です。全国と各都道府県のサークルは、上下関係ではありません。
また最高指導機関である常任委員会もおきません。
機関誌グループ、大会グループ、全国通信グループ、理論研究グループという有志グループをおき、それぞれのグループが機関誌を作成したり、大会の計画運営を担ったりします。
有志と言っても、やりたいときだけ参加するというものでものではなく、グループ員は各活動の担い手として責任を負います。(やりたいときだけというオブザーバー的な参加も可能ですが。)活動を担う意志のある会員なら誰でもグループ員になれます。
各グループはたんに実務を担うものだとは私は考えていません。理論研究グループは言うに及ばず、機関誌グループにしても、大会グループにしても、全国通信グループにしても、たえず理論的力量を高めていく必要があるでしょう。機関誌や全国通信にどんな実践を載せていくのか、どんな論文を載せるのかを考えなければなりませんし、大会のレポートをどのレポートにするのかについての判断も理論的な力量がなければできないでしょう。でなければそれぞれの活動は質の高い活動にはならないでしょう。それぞれのグループ員が理論的に高まる必要があるのです。4つのグループ活動のそれぞれがそれぞれの活動形態に応じて理論的力量を高めていくのです。
各グループのチーフは、全国に分散することになるでしょう。関東への一極集中ではなくなります。その活動の中心としてもっともふさわしい人になってもらう必要があるからです。
現在の高生研には全国委員会という一種の代議制の組織があります。会費の多くはこの全国委員会の旅費に使われています。しかし新しい高生研では、まずグループ活動を重視します。なぜならすでに述べたようにそれぞれのグループがそれぞれの活動形態に応じて理論的力量を高めながら活動を作っていくことを重視するからです。
現在の高生研は確立された理論を普及する組織の作りであったと言いました。その理論の普及のための組織の一つとして全国委員会を位置付けていたのではないでしょうか。たとえば、会則の5の(3)に全国委員会は、理論研究を行う機関ではなく「全国運動に責任を負う機関である」とされています。全国運動とは理論の普及ということではないでしょうか。
もちろん実態はそうではなかったし、極端な言い方をしているかもしれません。しかし、上に挙げた会則を見る限り、そういう組織の作りであったということです。
それに対して、以上述べてきたように、新高生研の組織の作りは、多くの一般会員をまきこみながら、さまざまな現場の実践にもとづいてたえず新たな理論を作り出す組織の作りになっているということが言えるのではないかと思います。
(新会則の案についてはまもなく発行される会員通信をご覧ください。)
ついに登場、カラー版早蕨(さわらび)
連弾企画の“妄想”
大阪・サトウです。
この間の「大阪の教育をめぐる状況」、全国からいろいろとご心配の声、励ましの声いただいています。
ありがとうございます。
条例制定に対抗する部分では、大阪高生研(およびメンバー)、いろいろとがんばってきましたが、もはや「大阪ローカル」のものではなくなってきており、全国に向けても、さらに発信していかねばならないなあ、と思っています。
<一例です>
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/5051221.html
http://blog.goo.ne.jp/kyoikunoashita
さて、今年8月の全国大会ですが、ほぼ同じ日に教科研の大会が東京・法政大学であります。(教科研大会は8月9,10,11。高生研は10,11,12)
「この間の大阪の動向については、教科研でも最重要検討課題として位置付けていて、先週末からの全国委員会でも大いに議論をしました」
ということで、サトウは教科研の担当氏から、実践報告を頼まれ、高生研大会が始まる10日の午前中指定で、報告させてもらうことになりました。
(「「教育基本条例案」を私情をまじえず教えてみた」)
それとともに、10日夜、高生研大会の交流会企画で、「東京の教育改革は何をもたらしたか」(高文研)の著者、渡辺謙一さんを招いてお話をうかがう企画があるとお聞きしました。
こちらも楽しみです。
で、これら、「大阪から東京から」として連弾企画にできないかな。
①10日午前「大阪の現状と高校生はこの条例をこう読んだ(佐藤の実践報告)」(教科研大会分科会)
②10日夜「渡部元校長を招いての東京の教育をめぐる状況の報告」(高生研大会交流会)
もっと言うと、(もう問題別の内容は決定しているのかもしれませんが)
③12日午前の問題別分科会で、「東京、大阪の状況がこれからどのような方向に向かうのか。われわれ現場教師はどう対峙すればいいのかをテーマとしたシンポ」(問題別分科会。まだイメージだけですが、市川昭午さんや渡辺治さん、土肥信雄さんなどのお話をききたい)
と、3つセットにした連弾企画。
教科研の方にも呼びかけて、高生研、教科研合同で、「ハシゴできます。大会に行こう」と呼びかけられないか。
……などと、いろいろと妄想ふくらむ新学期。
でも、新学期はじめのばたばた、自転車操業。
今年度も相変わらずですが、どうぞよろしくお願いします。(大阪・サトウ)
☆☆☆佐藤 功 taikanokaisin@kd6.so-net.ne.jp☆☆☆
担任拝命!
2年間、教育相談係でくすぶってたのですが
今年は花の3年担任を拝命しました。
うちの学校の始業式は、今年は9日(月曜日)なのですが、
クラス発表は、6日の金曜日に行われました。
例年、始業式の前日に、行われる慣習なので、
この日を狙ってゲリラ的に初SHRを決行。
今年は、初めて臨時教員をするフレッシュな副担任と一緒に
机移動の終わった教室に入り、
着席させ、出席番号1番の子に号令をかけてもらい、
「3年2組の担任をすることになりました伊藤香織です」と
軽く自己紹介。
予想外に盛大な拍手をもらい、テンションもアゲアゲ(笑)
副担任にも自己紹介してもらったあと、
早速、クラス名簿、時間割、月曜日の日程等の入った
学級通信0号を配布。
「はや!」「すげ!」というサプライズに満ちた反応に
一層気を良くしつつ、わずか10分足らずのパフォーマンスを終了。
職員室に帰る道すがら、副担任の先生が
「みんな、すっごくニコニコしてましたね!
楽しそうでした!」と言ってくれて、
客観的にも上手く行ったんだなぁ、と実感。
「他のクラスを出し抜いてね、
「なんだかこのクラス、楽しそう!」って最初に思わせるのが
結構効果的なんだよ。」
と、ちょっと姑息な手段を伝授。
でも、ホントに、効果あるんですよね(^-^)
さて、明日は本番。
これから本物の学級通信創刊号を仕上げます。
ギャルズの仁義
一昨年の文化祭での出来事。A高校の文化祭では、オープニングの際にクラスの代表者による出展のPRを行なっている。2~3人の生徒がステージに上がり「1年○組は中庭で縁日をやりますので、みなさん来てくださいッ!」というようなことを言って終わるクラスが多いのだが、最近ではダンスやパフォーマンスを披露するクラスも現われ始めている。
1年生のあるクラスでは、元気のいいギャルズがPRでパラパラを踊りたいと練習を始めていた。ちょうど同じ頃、2年生のクラスを超えたギャルズ有志も、中庭ステージ(A高校では中庭に鉄パイプとコンパネでステージを組んでいる)で踊るためにパラパラの練習をしていた。そして、それが偶然にも“かぶって”しまったのである。間もなく2年生のギャルズから横槍が入った。「うちらの曲パクッてんじゃねぇよッ!」てなもんである。1年ギャルズは「2年の先輩が因縁をつけてきた」と学年室に駆け込んで来た。2年ギャルズの行為は、明らかに活動への不当な介入であるから「君たちはそれに屈する必要はない」と諭したが、そうは言ってもやはり2年ギャルズは怖い。その時、学年主任は「今後、2年生が同じような圧力をかけてきたら、すぐに先生に言いに来なさい。必ず俺たちは君らを守る!」と言い切った。彼女たちは、口々に「○○先生、カッコイイ!」「惚れる!」などと言いながら学年室を出て行った。その後、両学年の職員が目を配りながらお互いの練習は続き、いよいよ文化祭当日を迎えた。
ところがいきなりアクシデントに見舞われた。いつも携帯にダウンロードした曲で練習していたのだが、その音源をステージ上で拾うことができないのである。元気よくステージに上がった1年ギャルズは、そこで立ち往生してしまった。仕方なく、次のクラスのPRを先に回したものの状況は変わらない。その時である。2年ギャルズ有志の一人がステージに近づき、自分たちの音源(CDかMD)を1年ギャルズに渡した。“敵に塩を送る”とは、まさにこのことである。何だかとても暖かい気持ちになるような出来事だった。
さて2年生ギャルズ(その名も『小悪魔愚連隊』)のほうだが、中庭ステージで元気良く3ステージをこなした。残念なのは、その中の何人かが学校を去ってしまったこと。まあ、これが現実である。
片桐哲郎
地域で生きる若者、高校生(2) ~若者が多いまちの雰囲気~
新しいまちでの1カ月は「住めば都」を肌身をもって実感した。最初は徒歩5分以内にコンビニのない生活に辟易としていたが、今では徒歩30分程度なら夫婦で買い物、食事にといそいそと出かけるまでになった。仕事や生活が不規則な私たちはよく出前を注文する。都会に住むとインターネットでも「出前館」なるサイトなど気軽にオンラインで、ご飯ものでもピザでもスープカレーでも寿司でも何でも食べることができた。今は、タウンページなどで住所が書いてあっても土地勘がないので、自分の足、目、舌など身体のあらゆる機能を使っておいしい店を「開拓」する。とにかく、便利のない分、何でも自分から動いて生活することはある意味「人間らしい」営みに戻ったのかもしれない。
新しいまちを歩いているととにかく2,30代の若い人たちが目につく。北海道であらゆる市町村を回ったが高齢者以上に多く会う世代がいないのでかなり新鮮な光景に見えた。自宅から10分近く歩けば有名会社も軒を連ねる工業団地があり、直近のコンビニには作業着の人たちが買い物に押し寄せる。バイパス沿いの安売り店や飲食店に行くと若夫婦や小さい子ども連れの家族、学生かもしれないカップルなどが多く見られる。ちなみに自宅は賃貸であるがここの管理会社の担当社員も、休日なのにガスを開けに来てくれた作業員も地元企業に勤める若者であった。ちなみに向かいは大家さんの息子夫婦と小さい子どもの3人家族であり、小さい子どもには目のない小学校勤めの妻はさっそく子どもと仲良くなり、母親とはメル友になったようだ。
ちなみにここの役所には出身学部・院の同じ先輩、後輩が数人勤めている。先輩は中堅どころであるが、外から見るところかなり重要な仕事を任されているようであり、地域でもずいぶん信頼を集めているようであった。また、この先輩を中心に月1回終業後にまちづくりの勉強会を開いており、あらゆる部署から若手の積極的な参加が見られた。さっそくその集まりに私も顔を出したが、そこには旧態依然とした公務員気質はどこにも感じられなかった。やはり、若い人の新鮮な感覚はどの組織や地域の活性化にも欠かせないものなのかもしれない。
(北海道高生研 井上)
大会の用意
50回東京大会は8月10日(金)~12日(日)です。
会場予定地となっている東洋大学白山校舎6号館はとても使いやすい会場です。白山校舎全体は旧白山通り(狭い)と白山通り(片側3車線)に面しているのだけど、6号館は広い白山通り側にあります。この入り口から南西方向に300m行くと小石川植物園があります。江戸時代の養生所があった所です。私が豊島区立巣鴨小学校の2年生だったとき、ここに遠足に来ました。
さて玄関を入ると広い吹き抜けになっていて2階より上ににさまざまな広さの教室があります。2階に上がっていく階段も広くて100人ぐらいなら記念写真を撮れるでしょう。分科会場も全体会場も2階にあります。階段を上がったところの空間は出会い、語り合い、そして交流会などの情報交換の場になるでしょう。
6号館の地下にはもの凄く広くて日本一人気があるといわれる食堂があります。夏休みには営業していないのが残念です。ここは大交流会の会場には広すぎるので、現在3号館の食堂を予約しています。ここはまだ見ていないので4月14日の常任委員会の前に、私、片桐さん、望月さんの3人で視察し、料理のメニューや料金についても相談してきます。
大会中は昼食は各自で取ってもらいます。お弁当は用意しません。私と池野さんで近くを歩き回って、昼食地図を作ります。大会のしおりに掲載します。
一般分科会と問題別分科会の報告者は4月14日の常任委員会で確定します。リーフレットは5月12日の第112回全国委員会で配布します。
東京大会実行委員会事務局長 船橋聖一
『高校生活指導』192号の特集には
新学期。高生研としても、新高生研を目指して大切な数ヶ月を迎えることになりますね。
さて、大学では今、様変わりが求められています。私が『高校生活指導』192号で「今、大学に行く意味を問う」を特集したのも、構想の出発点はそこにありました。
3月中旬、京都大学で開かれた大学教育研究フォーラムというものに参加してきました。私は「初年次教育」とか「共同」を取り上げた分科会に意識的に参加しました。というのは、私が勤務している大学でも初年次教育を重視していて、全入学生を対象とした学び方学習の授業などを行っているのですが、昨年私が担当した講座が大変不本意な結果に終わってしまったからです。今年度どう改革したらいいのか、そのヒントを探そうと考えたわけです。
その中の一つ「討議力養成を中心とする教養教育の改革」という小講演に参加したときのことです。報告内容は、某有名大学の授業実践で、PISA対応の討議力養成プログラムの開発、日本における国際先端教養教育の実現を目的にしたもので、他者と異なる意見を交わし、自らの考え方の一面性や理解の不十分性に気づき、自らの見方を修正していく討議の力を学生に身につけさせる、というものです。教室そのものを討議しやすいように移動式机に改造して、その机をくっつけて、その中央にイノベートボードなるものを置いて討論を記録していき、あとで発表に使ったりする、いわば小~高でもやるような班学習みたいなものがメインになっています。教室を変えたことをイヤだといった教員は一人だけで、「もっとこういう使い方できる」など、積極的な反応が学生からも教員からも見られたと言います。発表者は、「ディスカッションは学ぶ力を高めるために行う」ものであって、「討議力は、それだけ取り出して訓練することはできない。各教科に埋め込み、それぞれが取り組むものである。」と言います。当然と言えば当然ですが、重要な指摘だと思いました。問題はこのあとです。
商店街活性化のために討論を巻き起こそうと、学生たちを引き連れて地域の商店街に出向いたとき、意外なものが活性化したと言います。それは、利害対立、意見の衝突、ねたみといったものです。発表者は、「自営なので、協力する文化がない。自分のやり方はこれしかないと思っている。1回だめになると元に戻らない。それは大学に似ている」と言います。私は「利害対立、意見の衝突こそが討議の本質ではないか」と質問したのですが、「大切なことは最終的な目的は何かということであって、授業という人工的な空間では学ぶ力である。」との回答でした。
私はここで何が言いたいのかというと、ここにこそ、高生研の存在意義があると感じたということです。
「共同」「協力」「討議」「批判的思考」…こういったことは、今、多くの大学、研究団体、学会で実践、研究が行われています。しかしそれらの根底には「予定調和」があるように思えてなりません。
高生研(全生研も)は、集団には利害対立、意見の衝突がつきものであって、それをどのように乗り越えていくかというところに実践・研究のベースがあったと思います。
大学でこのように、共同とか討議といったことが盛んに取り上げられるようになったということは、早晩、高校でも共同とか討議といったことに取り組めと言われるようになる、そう想像するのは、あながち的外れではないでしょう。
そんなとき、私たちは、利害対立、意見の衝突といったことにどこまで勇気を持って向き合えるでしょうか。そこにこそ、高生研の試金石があるのではないか、そんなことをこの春休み、考えていました。
久田晴生