に投稿 1件のコメント

高生研全国委員会 そして 愛知・名古屋のことなど

 5月7日(土)・8日(日)の二日間にわたって、愛知県東海市で、第109回高生研全国委員会が開かれました。名古屋大会の構想を固めることがメインテーマの一つでしたので、私も、本当に久しぶりに全国委員会に参加させていただきました。

 東海市は、名古屋南部工業地帯に接続する工業地域・「鉄の町」です。会場となった東海市立勤労センターのすぐ西側に、新日本製鉄・大同特殊鋼・IHI(石川島播磨造船)など、鉄鋼関連の巨大工場が軒を連ねています。東海市は、今回の大震災で被災した釜石市と、同じ「鉄の町」ということで姉妹都市提携を行っているそうです。震災に当たっては、その直後に、かなり大量の支援物資を送ったり、市職員を支援派遣したりして、地元の報道機関はそのことを大きく取り上げていました。また今回の会場費がかなり低廉だったのは、東海市財政がかなり潤沢であることの反映ではないかと思います。

 全国委員会の様子は、後に詳しく、伝えられると思いますので、私は、簡単な個人的感想を述べるにとどめさせていただきます。

 福島県・青森県・秋田県の全国委員の方から、被災地の状況をいくつか聞くことができました。特に福島県では、原発事故で被災した地域の高校生が、県内各地の高校に分散して授業を受けている様子をうかがいました。当初は、被災地の高校が「サテライト授業」を行うということだったようですが、実際にはそれは実施されず、勤務校の先生たちが、該当の生徒が通う各学校に派遣されて授業をされているということです。原発事故の被害などを避けて避難された先生も少なくなく、避難先からかなり遠い学校への通勤を余儀なくされている方も多いようです。今年度入試では、3月11日が合否発表日だったため、被災校では結果を受験生に通知することができなくなり、結局受験者全員を合格とする処置がとられたそうです。一方、県教委は、来年度教員採用人事を行わないことを早々と決めたということで、他県などへ避難した生徒は「もう地元には帰るな」ということかと怒りが広がっているそうです。先生たちや被災生徒の大変さが伝わってきました。名古屋大会では、大阪高生研がお世話下さって、今回の震災の状況や被災地域の教育について、北関東・東北からの参加者の皆さんに存分に語っていただく交流会を行うことになりました。二日目(8月7日)の「交流会Ⅱ」で行う予定ですので、多くの皆さんにご参加いただきたいと思っています。

 また、一日目(8月6日)の交流会では、三重高生研が主催して「原発震災について」ビデオをみながら報告を聞く会を行います。事故で放出された放射能の影響など、正確な把握が結構難しいところがありますが、核心をつかむことができる交流会になると思います。

 全国大会実施要綱も、ほぼ確定しましたので、近くお手元に届くと思います。

 

 さて、この支援プログの内容に関わってですが、名古屋情報・地元情報の発信が少ないというご指摘がありました。久田先生がいろいろ書いて下さっているのですが、なお充実していく必要があるようです。私もこれからはできるだけ触れていきたいと思っています。少し準備もいりますので、今回は名古屋市や愛知県の名前の由来について書きます。

「名古屋」という地名は、名古屋城のすぐ南に「那古野」町・「那古野」神社がありますが、これが語源のようです。平安時代につくられた「那古野荘」という荘園が最も古い現れだと考えられています。(那古野町地内には、「四間道(しけみち)」と呼ばれる古い町並みが保存されている地域があります。一見に値すると思います)

 愛知の地名の由来は、「あゆち潟」(年魚市潟)にあるそうです。万葉集に「桜田へ 鶴(たづ)鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る」(高市黒人)、「年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ」と歌われている、また、『熱田宮縁起』にヤマトタケルの歌として伝えられる「あゆちがた 氷上姉子(ひかみあねこ)は われ来んと 床避(さ)むらむや あわれ姉子を」に出てくる、その年魚市(あゆち)が転じて、「あいち」になったとされています。「年魚市潟」は熱田(東海道の「宮の宿」)から東南方および西方に広がっていたかなり広大な干潟を指すと考えられています(大同大学がある大同町は「あゆち潟」のほぼ中央部、東海市やその南の知多市はこの干潟の南端部分に当たると思われます)。「あゆち」というのは伊勢湾を渡って吹き寄せる南風の名だということです。この「あゆち」が、奈良時代律令体制のもとで、地名は「嘉字・好字・二字」で表記するという原則に基づいて「愛知」「愛智」とされ、「尾張国愛智郡」というように表記されるようになりました。以前、「倫理」で「愛知県はソクラテスの言うフィロソフィア(哲学・知を愛する)という名だから愛知県は哲学県だ」などと冗談をいって授業していましたが、本当は「あいち」は風の名前だったのです。閑話休題になってしまいました。

柴田順三

に投稿 コメントを残す

愛知といえば・・

 久田さんの文で、「そう言えば、秋田にも愛知県にゆかりの人がいた。」と思い出しました。菅江真澄という江戸末期の人で、三河に生まれ、北海道・東北地方を旅して晩年は秋田各地を旅し亡くなりました。『菅江真澄遊覧記』と総称される旅日記、随筆や秋田藩の地誌など200冊以上の著作があり、近世の歴史民俗を記録した第一級の資料として高く評価されています。その足跡は県内隅々にあり、この能代の近くの八峰町にある手這坂は、菅江真澄が「手で這うような坂を下ると、突然、桃の花が咲き誇る村が現れ、その村の美しさに感動し『「桃源郷』と称えた」とされ、茅葺きの家を残した里づくりをしています。

また、先日のテレビ番組「秘密のケンミンSHOW」では、サツマイモで作った「鬼まんじゅう」が愛知の名物として紹介されていました。「ういろう」と味噌関連料理しか知らなくて、「愛知へ行ってもなあ」と思っていましたが、テレビを見たカミさんの「あれが食べたい」の一言で、愛知へ行く「大義名分」が出来ました。

 ところで、今、能代はバスケットボールの「能代カップ」で賑わっています。出場チームは、新潟商・洛南・明成・沼津中央・延岡学園・能代工(女子)青森山田・秋田商・酒田商・能代北・能代です。初出場の沼津中央が、大会2日目で優勝を決め、今年のインターハイでは台風の目となりそうです。以前、愛知県の安城学園高校が出場し、優勝しています。顧問やコーチは能代工業OBです。

 この週末は全国委員会です。飛行機で余裕のない旅となりますが、大会につながる場として楽しみに出かけます。

            

             

f:id:kohseiken_nagoya:20110505090539j:image

 (八峰町観光協会)

とらぬ狸@秋田

に投稿 コメントを残す

今週末、全国委員会!!

 このたび、あるところから機会をいただいて「実践記録をまとめよう」というお題で原稿を書くことになりました。「教師のストレス解消」という特集テーマのなかです。

 「実践記録をまとめることは教師のストレス解消になる」というのが私の主旨としたいところです。まだ漠然としていますが、レポーターを受けることが決まったり、寄稿しようとなるだけで、毎日の生徒とのやり取りや授業一時間一時間について、振り返りをしながら歩むことになるのではないでしょうか?そうなるとうまくいったと思う日も凹んだ日もあるなかで、現象の捉え方への起伏が緩やかになり、とことんまで自分や生徒や保護者や同僚を追い詰めたりしないことにつながるのではないか、別の視点や可能性を考えついたり、次はどうしようかと誰かにしゃべったり、聞いてみたりする、記録をつけるようになる(書いて整理でき、吐き出したりする)→ストレス軽減☆というようなことを思っていたからです。

 大阪の「ぴらいち」の取り組みにある「ホメ」と「ケナシ」、「評価」と「批判」を教師はいつもはいつのまにか自分でやっていることと思います。それを意識してやるようになるというのが、レポーターや寄稿かもしれないなと私自身が感じるからでもあります。

 今年度、教職初の20代のお二人と、教科書をほとんど使わず(=指導書を購入していない)、時事問題中心というような授業を、TTのような形態でしています。授業計画の打ち合わせのとき、お二人ともメモをとり、あとで自分なりに書き直して授業に臨んでおられます。そして、授業後に日記のような、記録のような、進度だけではないものを書いておられるようです。特に22歳の方とは、教職22年目の私はよく話をしたり、お昼に行きます。非常勤講師の方なので、授業の様子や生徒の様子、うまくいかなかった話、こんなときどう対応すればよいのか(よかったのか)という生徒指導のことなどを質問されたりします。私は、できるだけ一人で答えず、教員室の席の近い人や通りがかった人を巻き込んで「おしゃべり」に発展させるようにしています。これはおそらく研究会なら「聞き込み」や討議にあたる部分なのかもしれません。

 

 この週末は全国委員会があります。私にとって2度目の参加です。大会の詳細も明らかになるでしょうし、この応援ブログもいっそう大会を意識したものにしていきたいと思っています。名古屋大会で私は何を目的にするのか? それを確かなものにするために、行ってきたいと思っています。

 岸田康子

に投稿 コメントを残す

名古屋の紹介-歴史編

 私が名古屋に戻ることを決めた時、兄とこんな話をしました。「濃尾平野は広い」。それまで暮らしていた京都は、西、北、東が山で取り囲まれていると、当たり前の事ながら実感します。その盆地も南下がりで、東西の移動でさえも小さいな起伏があることが分かります。ところが濃尾平野は真っ平らで、子どもの頃自転車に乗っていて坂道を上り下りしたという記憶がほとんどありません。

ところで皆さんは平田靱負(ゆきえ)という人をご存じですか。

 この濃尾平野を作ったのが木曽、長良、揖斐の木曽三川ですが、デルタ地帯にはつきものである氾濫をたびたびおこしてきたのもこれらの川です(そもそも氾濫するから沖積平野ができたわけですが)。ところが江戸時代、尾張藩(つまり徳川家)を守るために、何と堤防の高さが、尾張側の方が3尺高く作られたのです。そのため、美濃(つまり岐阜県)の方だけが水害に常に苦しめられてきました。なんぼなんでもこれはひどいと、美濃諸藩の訴えがあり、徳川幕府もようやく重い腰を上げ、1755年木曽三川の治水工事を、これまた何と薩摩藩に命じたのです。その時の総奉行が平田靱負でした。難工事の末、1756年に完成させるのですが、その直後、大勢の犠牲者を出し、多額の借金を背負った責任をとって、彼は自刃します。

 実はこの話、私は小学校3年の道徳の時間で習いました。愛知県や岐阜県の工事を、なんでわざわざ鹿児島県の人がやるのか、そんな発問もその授業の中でありました。(勿論、皆さんお分かりですね)

 時の政権に翻弄され犠牲になった人々。いま福島で起きていること(これから全国の原発でもおこりうること)がダブって見えます。

 この治水工事の後、ここ(岐阜県海津市)に松が植えられ、今では「千本松原」として国の史跡に指定されています。私は学生時代(静岡にいたので)、三保の松原や沼津の千本松原も見てきましたが、今でも「松原」と聞くと思い浮かぶのはこの海津市の「千本松原」です。 久田