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名古屋の紹介-歴史編

 私が名古屋に戻ることを決めた時、兄とこんな話をしました。「濃尾平野は広い」。それまで暮らしていた京都は、西、北、東が山で取り囲まれていると、当たり前の事ながら実感します。その盆地も南下がりで、東西の移動でさえも小さいな起伏があることが分かります。ところが濃尾平野は真っ平らで、子どもの頃自転車に乗っていて坂道を上り下りしたという記憶がほとんどありません。

ところで皆さんは平田靱負(ゆきえ)という人をご存じですか。

 この濃尾平野を作ったのが木曽、長良、揖斐の木曽三川ですが、デルタ地帯にはつきものである氾濫をたびたびおこしてきたのもこれらの川です(そもそも氾濫するから沖積平野ができたわけですが)。ところが江戸時代、尾張藩(つまり徳川家)を守るために、何と堤防の高さが、尾張側の方が3尺高く作られたのです。そのため、美濃(つまり岐阜県)の方だけが水害に常に苦しめられてきました。なんぼなんでもこれはひどいと、美濃諸藩の訴えがあり、徳川幕府もようやく重い腰を上げ、1755年木曽三川の治水工事を、これまた何と薩摩藩に命じたのです。その時の総奉行が平田靱負でした。難工事の末、1756年に完成させるのですが、その直後、大勢の犠牲者を出し、多額の借金を背負った責任をとって、彼は自刃します。

 実はこの話、私は小学校3年の道徳の時間で習いました。愛知県や岐阜県の工事を、なんでわざわざ鹿児島県の人がやるのか、そんな発問もその授業の中でありました。(勿論、皆さんお分かりですね)

 時の政権に翻弄され犠牲になった人々。いま福島で起きていること(これから全国の原発でもおこりうること)がダブって見えます。

 この治水工事の後、ここ(岐阜県海津市)に松が植えられ、今では「千本松原」として国の史跡に指定されています。私は学生時代(静岡にいたので)、三保の松原や沼津の千本松原も見てきましたが、今でも「松原」と聞くと思い浮かぶのはこの海津市の「千本松原」です。 久田

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