先日の授業で、「5月3日は何の日か?」とツカミで質問したつもりが、「こどもの日!」という自信満々の答えがあちこちから聞こえてちょっとショックでした。「ちゃうよ~」と言うと、次は「文化の日!」、さらに次は「勤労感謝の日」「天皇の日」(それって正式名称じゃないし…しかも12月23日のことか4月29日のことかわからないし…)結局「建国記念日」まで出てきて…終わらないので、結局こちらから言いました。
今日の授業では、「句読点とは『。』と『、』とを合わせてそう呼ぶんだと思っていた」とのこと。高2です。知ってしまえばどうってことないことですが、今まで知らずにいても問題なかったんだなってちょっとびっくり。
AKB48のメンバーの一人と同名で、作文の見本を作ってプリントを配ったら、「○○(メンバーの名前)って字、キレイねんなー」と生徒。いやいや、本人に頼んで書いてもらったのではないし、少しは親しみを持ってそのプリントを見てくれるかなと思って用意しただけなんやけど…
こんなふうに書くとどんな学校?って思われるかもしれませんが、ネットなどで知りたい情報だけをピンポイントで得られるとか、新聞を広げている大人が身近にいない(いれば、新聞を読まない高校生にとっては、見出しだけでも目に入ることになりますが、最近は電車内だれも結構ケータイが多いですしね)とか、話をする相手がかなり狭い範囲だとか、に起因するのでしょうか。
どうでもいいことかもしれないし、知ってたからどうとかではないかもしれないけれど、知っていてほしいなということからまず説明しなくてはいけなくて…雑談や余談で思わぬ時間を取られた今週でした。
ところで、私の最近の疑問は、「核になる生徒を育てれば、その周りの生徒たちも伸びるって本当なのか」ということです。この場合の「伸びる」はメインはテストで測れる学力や積極的にアカデミックなことに挑戦して成果を上げていくといったところでしょうか。
しばらく前に、推薦先の大学の先生から「一般入試で入ってくる学生は長文を書ける力がないから、おたくでは論文を書ける生徒を育ててほしい」とコメントをもらったことがあります。私の個人的な感想は「うちの生徒に論文を書ける力を目一杯つけたとしても、一般入試枠の学生の論文を書く力はその学生ひとりひとりにつけることでしか伸びないのではないのか」です。理屈をこねているだけでしょうか…
「ライバルがいるからがんばれる」とか「アイツに触発されて自分もやることにした」という個々のエピソードはわかります。また逆に、居眠りや内職、忘れ物などは、授業規律という面で、個々の生徒の背景や事情はもちろん考えておかなければならないですが、「寝てもセンセーなんにも言わへんし、それでいいんや」というムードはすぐに伝染するというのもあるかと思います。
「核になる生徒」に手厚くお金も人も時間もかけると「周りの生徒も伸びる」のか。私は、「核になる生徒」の伸びを意識しつつ、実際には教師が集団的力量を発揮していて「生徒集団全体」をみているからだと今のところは思っています。でもすぐに結果がわかるものでも、プロセスと結果が一対一対応でもないし、検証のしようもないのかもしれませんね。
今日は授業中に鶯の鳴き声が何度も聞こえ、授業を中断して、皆で聞きました。学校の周りは大木から草木、藪、花、虫、鳥…自然に恵まれています。毎年の入学式に桜が咲いていてほしいと、幾種類もの桜が植えられており、毎年の天候がどうであれ、どの種類かはなんとか咲いているということは、生徒は知らないだろうなとその話をしたら、「ほぉーっ」とのこと。自分たちの入学は歓迎されていたんだと気持ちを新たにしてくれたようでした。
岸田康子