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指導ではなく支援を~Aくんへの対応と、高生研例会のこと~

 放課後の教室。ちらほら数名の生徒たちがなごやかに談笑しながら自習している傍らで、今日も私はAくんの机周りを片付けた。

 三日ぶりだから紙類の散乱状況はひどい。今日配布されたプリントや返却された中間テスト、教科書や資料集、弁当代わりに買ってきたパンのビニール袋などが、くちゃくちゃと机の中に突っ込まれていたり机の上に積み上げられていたりする。

 Aくんの姿はそこらにない。私はプリント類を一枚ずつ伸ばし、分類し、ファイリングしていく。「先生、おかあさんみたいなことして」とBくんの声が背後から飛んでくるけれども、「Aくんには今これが必要なんやわ~」と言って作業を続ける。教科書は教室後部の個人の棚へ、プリント類は各教科ファイルに綴じて机の中へ。要らないものはゴミ箱へ。

 「先生の日課ですね」とCさんが言ってくれる。果たしてこれでよいのかは、わからないのだけれども…。

 私は3年生の担任。Aくんとの付き合いは3年目になる。最初の2年間は、持ち物を整理せず配布物をすぐに失くすAくんに自分で整理整頓する習慣をつけさせようとしていた。しかし「自分で整理させる」ことに固執した結果、私は彼とひどくぶつかることとなった。

 2月のある日、教室を入試に使うため全私物持ち帰りが義務付けられたにもかかわらず、Aくんはビニール袋大3個に詰め込んだ紙類・教科書類を掃除用具入れに隠したのだ。後日発覚して「家庭に届ける」と言い張る私に対してAくんは「何が悪いんですか。荷物を掃除ボックスに隠して何が悪いんですか。誰にも迷惑かけてないでしょ。僕が荷物を掃除ボックスに隠したからって、入試に影響ありましたか!」と食ってかかった。

 「悪いですよ!私物持ち帰りが義務付けられていて、みんな大きなかばんを持ってきて重たい荷物をちゃんと持って帰ったのに、君だけ掃除ボックスに荷物を隠すなんて、悪いじゃないですか」「荷物を持って帰った奴らはね、掃除ボックスに隠すっていう知恵がなかっただけですよ。」「とにかく、キミの荷物、家に届けるから」と私が言った途端、Aくんの態度が変わって「オマエの顔みてるだけでキモイんじゃ!家へ来る、家へ来るって言いよって。困る言うてるやろ。アホか!ボケ!あっちいけ…(たくさんの罵声を聞いたが正確に覚えていない…)。Aくんは「家庭訪問」という言葉にキレたのだった。

 「家庭訪問」されていい思い出なんかないですよ、とその後冷静になったAくんが語った。小学校中学校時代にいやというほど家庭訪問を受けたらしかった。結局私は私物お届け家庭訪問はせず、Aくんの私物は学校で分別して要らないものを処分した。

 その頃である。同じクラスにいるCさんのお母さんからアドバイスをいただいたのは。「先生、Aくんに必要なのは、指導ではなくて支援です」。

 Cさんのおかあさんは支援学校の先生をしておられる。まじめで素直なCさんは家庭でよく学校のことを話すらしかった。私がAくんの身の回りの整理に手を出そうと思い始めた時に、Cさんを通じてお母さんに相談したら、「必要なのは指導ではなくて支援です」と言ってくださったのだった。

 指導ではなくて支援? 具体的に教師のどんな行動が想定されるのだろうか?―それは個々の生徒の状態にもよって違うだろうけれども、同じ問題にぶつかっている教師は多いはず。こんどの例会に出して、どうしたらいいか一緒に考えてもらおう、と思って4月の例会は「指導ではなく支援を」というテーマにしてもらった。

 Aくんへの対応は暗中模索状態ではあるけれども、二か月に一回の高生研例会で友人たちから出される様々な“困難を抱える生徒たち”の事例を聞きながら、少なくとも目の前の次の一歩だけは見えるような気がしている。

(京都 田中)

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サークルつれづれ~教育研究サークルについて思うこと~

 京都の寺井です。

 教育研究サークルについて、思うことを少し書いてみたいと思います。

 「京都こくご教科懇」は20年、国語教育研究サークル「土曜日の会」は30年となるのですが、これが民間教育研究団体ですと、戦後60年、50年という大きな節目を迎えています。

 「教育科学研究会」は、戦後の再建時から『教育』という雑誌を発刊して以来、60年です。“戦後教育学”否定の動きを大きく問題視して、60年間の歩みを10年ずつに区切って歴史的な検討会を重ね、何冊かの“講座物”を世に出そうとしています。“戦後教育学”をこの教科研が全的に背負わねばならないとする点がよくわかりませんが、私にはとても興味深いことです。

 「日本文学協会」の国語教育部会も、やがて60年です。1976年の『日本文学』での「国語教育の戦後三十年」(シンポジウム)を読みますと、戦後の熱い思いが通らず、運動の在り方の是非を考え、子ども観や教材観が多様になっていく状況に苦慮する―その苦労がしのばれますが、議論の端に、今の私たちの状況に通じる目を感じます。この後の30年、私たちの30年は、どうたどるべきでしょうか。

 たびたび寄り集まれる、身近な者たちとしてのサークル、教育現場で汗している仲間の親しみで集まれるサークルが、たとえば、「教科懇」であり「土曜日の会」でしょう。「教科懇」は教員組合を母体としていますが、「土曜日の会」はたまたま知り合った知己のゆるい集まりです。

 その「ゆるさ」は会を始め、ずっと担って来られたFさんの強力な求心力とおもしろいバランスをとっています。

 

 「土曜日の会」の10月例会に、S市の府立高校の若い先生(女性)が初めて参加しました。どこかに国語の話ができる場がないものかとの思いが募って、大学で学んだ恩師に訴えて、ここを教えられて来た、ということです。その師は、かつての私の同僚でもあります。男子の多い工業高校では、授業に集中できず、授業している教師という自覚が持ちにくいことが、大きな悩みと言います。

 「たまらなくなって、校長に聞いたんですよ。この学校では教員の仕事の何割が授業なんですか。校長は、5割と言うんです。ショックでした。私のアイデンティティは何なのか。私はあくまでも国語の教師でありたい。」 京都は遠いけれど、今見つけたこの場は手放したくない、と思っているようです。

 「教科懇」の20年は、そんなに大きなこととはされていませんが、「土曜日の会」は、昨夏以来、継続はどうするか、世代交代はできるのか、随分気をもみ、話し合いもしました。見通しは容易ではありません。わずかな可能性を胸中に抱いて、私は協力していくつもりですが、かなり悲観的です。

 ところが、10月例会に初参加した先生を前にしますと、この方の思いを精一杯守らねばと思うようになります。

 寺井治夫