大阪高生研 井沼淳一郎
広島の少女殺害事件。報道によるときっかけになったのは、LINEに書かれた悪口だという。久々の1年担任をして、自分のクラスでも「LINEのなかでのケンカ」の指導に神経を使っていただけに、他人事とは思えない。
マスコミや大人は、バーチャルな世界でのトラブルとリアルな世界でのトラブルの境目がつかない若者の「未熟さ」を指摘したり、LINEが短文、感情的言語が多いことを指摘して、本当の対人理解のためにはちゃんと向き合って話しあうことが必要と提言する。
だけど、なんだか違和感がある。マスコミや大人(多くの識者とよばれる人たちも含めて)は、どうも、リアルな世界の対人関係こそ本物で、バーチャルな世界のそれは2次的副次的なものと捉えているようだ。そこには、リアルな世界の対人関係をうまく取り結べる人間が「大人」、「正常」であり、反対にバーチャルな世界の対人関係に依拠している人間は「未熟」、ときには「病的」とする見方が潜んでいる。
しかし、いま、1年生の担任をしていて思うのは、彼らにとってLINEは、リアルな教室空間と同じくらいリアルな世界なんだということ。最近、文化祭のクラス企画をめぐって、クラスが激しく対立したことがあった。どんどんアイデアを出す人たちが、何も意見を言わない人たちに苛立ち、「どう思ってるん?」と問いただしたときのことだ。「文化祭の話しあいで積極的に意見を言う人はいい人だ」という無言の正義の押しつけに対して、おとなしい男子が手を挙げ、「僕は気の強い人と話をするのが苦手で、言われるだけでドキドキしてしまいます。だから、LINEで議論しませんか?」と応じたのだ。
この提案で、教室の空気が変わった。意見を言わないとされた人たちが続々と話し出し、やがてお互いのテンションや性格の違いを理解し合おうという空気に変わっていったのだった。
このことは、LINEがいいか悪いかという問題ではなく、すでに、彼らにとって、人間関係のミクロポリティクスを読みかえ、編み直すためのリアルなツールになっていることを示しているのではないか。
とはいえ、LINEにはまる若者たちに問題がないわけではない。彼らが恐れるのは、何よりも「気まずい空気」になることであり、なんとかそれを避けようと慎重に言葉を選んだ応答が延々と繰り返される。しかし、ひとたびそれに失敗すると、トラブルを打開するよりも、自分か相手を「退場」させる、あるいは「ブロック」することで、「気まずさ」を解消しようとしがちである。リアルな世界での「退場」は、いとも簡単に退学、転学という結論になったりする。
だとしたら、「退場」や「ブロック」ではなく、バーチャルであれ、リアルであれ、「気まずい関係・空気」を突破する別のやり方をどう見いだすか。そこが、いま、教師の指導のキモだと思う。
もうすぐ完成する高校生活指導196号の巻頭を飾るのは、若手M先生のHR実践「LINEでは伝わらないこと」だ。ベテランといわれる高生研教師からは、つっこみどころ満載の実践だが、僕は彼の立ち位置や言葉から、LINE時代を生きる教師と生徒の「別のやり方」の模索を学んだ。196号は、8月1日に会員の元に届く予定。楽しみにしてほしい。