に投稿 コメントを残す

1つの傷でなく、2つのカサブタに

アンドウです。

震災から2週間がたちました。

テレビから一時、CMが完全に消えましたが、その後、ACジャバン(旧公共広告機構)のCMが流れています。今は、民放ではほぼ平常の番組を放送しているような気がします。

(AC以外のCMも増えてきた) 

また、多くの募金が呼びかけられ、取り組んでいない人はいないのではないかと思うほどです。気になるのは、自分の中で「普段の生活」がどんどん大きくなって、「被災地のこと」が小さくなっていくのではないかという点です。募金や支援物資提供をしたあと、「一度やったら終わりなのか、終わりじゃないだろう。」という自分を問い詰めてたりしています。

昨日のNHKで、被災地の「格差」のことが取り上げられていました。報道・取材の偏りが支援の偏りを生んでいるという指摘でした。その番組は、被災地で起こっている問題を見つけだそうという意図は感じましたが、具体的な対応方法が示されたとは思えませんでした。あえて言うなら「変化する動き、困っている状況に常に目を向け、取り組み、応答する姿勢が、必要だ」と感じました。しかし、この「常に」という言葉には、さまざまに困難さを感じます。

福島第1原発の問題も、熱がなくなるまで「常に」燃料冷却をやり続ける必要があります。使用済み核燃料で熱がなくなるまで、3年から5年といわれていますが、稼働していた原発の燃料も冷やし続けなければなりません。しかも、施設は壊れていて、すでに取り返しのつかないくらいの放射能が漏れています。「冷却し続ける」こと自体が大変な困難を極めています。それでも、その作業に取り組まざるを得ません。(果たして、東京電力が責任もって対応し続けていくことが可能なのでしょうか?)(熱が冷めても放射性セシウムや放射性ヨウ素などの扱いが問題になります)(放射性セシウムが環境に影響を及ぼさなくなるまで放射能がなくなるためには、300年かかると言われてる)

3月11日の地震や津波による被害だけでも、とてつもなく大きな傷あとを残しています。今まだ余震がつづき、カサブタにもなっていない状況。皆で手当てをして、3ヶ月後にはカサブタにすることができるでしょうか。そして、さらにそのカサブタがまで取れるのに、早くても5年、長くて10年ぐらいはかかるかも知れません。それでもきっと、癒すことのできるカサブタであるはずです。

一方、今回の原発事故は、いつになったらカサブタになるでしょうか。私たちの生きている間に、(放射性物質を埋めたりして)カサブタにはできるかも知れませんが、2代、3代後でも、癒えないことを覚悟しなければなりません。

今私たちは、大きな傷を背負っています。その傷は、1つのではなく、いずれ2つのカサブタになるはずと、分けてとらえることを提案します。1つは、私たちの世代で何とかしようという自覚して治療に手当に当たるもの。もう一つは、次の世代にまでカサブタをつくってしまい申し訳ないという自戒をこめた覚悟と行動が問われています。どちらも、忘れることのできなことととして常に、私たちが生きていく体の一部に在ります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください