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東京大会全体会:熟議民主主義について討議しよう

 東京大会一日目の全体会には、熟議民主主義論で著名な政治学者田村哲樹さんを講師に迎えます。私としては、招聘できたことは大変うれしいことで、個人的に盛り上がっています。田村さんは名古屋大学勤務でもあり、実は昨年の名古屋大会に呼びたかった講師でもあったのですが、オーストラリアの大学に出張していることがわかりあきらめました。今回は念願かなって講師に招聘できたので、全体会で議論がもりあがることを願っています。代表的な著書は『熟議の理由』(勁草書房)。全体会論議の前にぜひ読んでいただきたい好著です。
 さて、熟議民主主義論とは何でしょうか。簡単に言えば、熟議とは、「とことん話し合うこと」。民主主義に市民の話し合いのプロセスを組み込んでいくことと考ればいいのでしょうか。私の理解では、討議とそう変わらない気もしますが、討議には「熟議」と「闘技」があり、何に力点を置くかによって変わってくるようです。闘技民主主義の側からすれば、熟議は合意形成的で、民主主義における意見対立・抗争性の意味を軽視していると言えるようです。
また、別の議論では、熟議民主主義は市民による理性的な議論に期待をかけすぎているのではないか。会議でどのような飲み物を出すかという判断のように、それまでの同じような場面の履歴を参照し、その数理的な集計から一般意思を導き出せるという手もある。それは、インターネット等によって技術的可能性も担保されている。市民の選考(一般意思)の反映を技術的に可能にさせればよい。こういう反論もあるようです。
 一方、熟議民主主義が強調しているポイントは、「選好の変容」。熟議の過程で、他人の意見に触れて、自分の意見が変わっていく、自分の意見が反映されて全体の合意が変わっていく。「選好の反映」よりも「選好の変容」に力点が置かれています。直観的に理解しやすいし、「選好が変容」する面白さも共有できるのですが、これまでの討議づくり実践は必ずしもそれを目的とはしていなかったのではないでしょうか。
 私の理解では、高生研において討議をつくす実践の意味は、「決定」を全体のものとして受け止め直すプロセスにこそあったのではないかと思います。「決定」が安直に破られるのは、「決定」が一部の者の提案にとどまっていて、その他の者にとっては「決意のない決定」に成り下がってしまっているからだ、と。それで、討議をつくすことで、「形式的な決定」を全員が関与した「決意のある決定」へと発展させること。そうすることで、「集団のちから」が本物になっていく、と。ここでは、「集団のちから」が第一目的で、「選好の変容」は二次的なものなのだと感じます。
 「討議実践はいままでも行ってきた。何も目新しいものではない」という意見もあろうかと思いますが、その議論文脈の異なりからより根源的な民主主義像をさぐれたらと思います。全体会の日の夜の交流会では、「田村哲樹を囲んで」を行います。知的刺激あるれる交流会にしたいと思います。ぜひ参加してください。(岡村)

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