はじめまして。
愛知高生研の柴田です。
高校入試たけなわの季節になりました。この機会に、愛知県の高校入試制度(入学者
選抜制度)について、少し書いてみたいと思います。
1 3本立ての入試制度
愛知県には、国立2校・公立165校・私立55校、計222校の高等学校がありま
す。これらの学校は、「偏差値」や大学への進学実績などで、見事といっていいほど
に序列化されています。今中学3年生は激しい「受験競争」の真っただ中にいます。
こうした高校序列化を創り出す上で、「高校入試制度」は大きな役割を果たしてきま
した。
愛知県の公立高校入試制度は「複合選抜」と呼ばれていますが、これを含めて、県全
体の高校入試制度は3本立てです。①公立高校全日制入試制度、②公立高校定時制・
通信制入試制度、③私立高校入試制度 がそれにあたります。愛知県の高校入試制度
は相当複雑で、このような制度をとっている都道府県は他にはありません。
まず、公立高校全日制入試制度ですが、これは3段階があります。
第一段階は推薦入試です。推薦入試では、学力検査は行われません。基本的には書類
審査と面接(一部実技)で合否が判定されます。推薦入試の「定員」は、普通科の場
合は全体定員の10%程度~15%程度、専門学科・総合学科では30%程度~4
5%程度とされています。平成23年度推薦入試はすでに実施済みで、2月21日に
合格者が発表されました。それで見ると、普通科の合格者の募集定員全体との比率で
は若干の特徴があります。いわゆる「偏差値ランク」の高い学校は、10%枠に収ま
る傾向が顕著ですが、ランクが低い学校ほど比率が高くなっています。ただし、いわ
ゆる「教育困難校」は推薦希望者(出願者)数が少ない傾向があり、出願者のほぼ全
員が合格になっている学校もあります。
2 「複合選抜」の本丸
第2段階は「一般入試」です。普通科高校の「一般入試」には、「学区制」がとられ
ています。「学区」は「尾張学区」と「三河学区」の2学区です。両学区の境界地域
は、「調整地域」と呼ばれ、どちらの学区の高校も出願できますが、それ以外は居住
区の高校しか出願できません。専門学科・総合学科には「学区制」はありません。全
県1学区です。普通科の高校は、全県で4つの学校群に分けられます。「尾張Ⅰ
群」、「尾張Ⅱ群」、「三河Ⅰ群」、「三河Ⅱ群」です。それぞれの学校群は「Aグ
ループ」と「Bグループ」とに分けられます。このグループ分け
は試験日の違いを表しています(23年度は「Aグループ」校の試験日は学力検査3
月10日・面接3月11日、「Bグループ」校は同じく3月14日と3月15日で
す)。専門学科・総合学科は学区がありませんので、それぞれ「Aグループ」と「B
グループ」に分割されるだけです。入学希望者は第1志望校と第2志望校の2校を受
験できます。(第1志望校だけに出願することもできます)ただし、2校受験の際の
出願校は同じ「群」に属していなければなりません。例えば「尾張Ⅰ群」の「Aグ
ループ」に属する高校を第1志望にした場合は、第2志望校は「尾張Ⅰ群」の「Bグ
ループ」に属していなければならないのです。「Bグループ」校が第1志望で、「A
グル―プ」校が第2志望であってもそれはかまいません。(平成18年度入試から、
Ⅰ群とⅡ群の両方に属する普通科高校ができました。この高校へは「尾張」「三河」
の区別はありますが、群に関わらず受験できることになります。)普通科高校と専門
学科・総合学科の高校とを2校受験する場合は、「グループ」が異なっていれば出願
できます。第1志望校と第2志望校へはそれぞれ別の願書を提出します(用紙が色分
けされています)。2校受験する生徒はそれぞれ2つの学校の入学試験を受けること
になります。中1日を置いて、4日間試験日になるわけです。(これは受験生にとっ
てはとても大きな心理的・物理的負担です)
個々の受験生に対する合否判定は、まず第1志望校について行われます。ここでの
合格者には第2志望校の合否判定は行われません。不合格になった場合だけ、第2志
望校の合否判定が行われます。
合否判定の「校内順位」の決定は、2段階で行われます。第1段階は、調査書の評
定合計と学力検査の得点の双方が一般入試募集人員内にあれば、合格になります。こ
れを「A」とします。第二段階は「A」以外のもの(「B」とされます)について行
われます。「B」の者の合否判定は学校ごとに判定基準が異なり、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの3方
式があります。Ⅰは、評定合計と学力検査合計得点の合計で順位をつけます(同等評
価)。Ⅱは、評定合計の1.5倍と学力検査合計得点の合計を用います(内申重
視)。Ⅲは、評定合計と学力検査合計得点の1.5倍の合計を用います(学力検査重
視)。どの方式を採用するかは各学校に委ねられています(事前に公表されます)
が、概ね「偏差値ランク」上位校はⅢ、中位校はⅠ、下位校はⅡの方式を採用してい
ます。
公立高校全日制入試の第3段階は「二次入試」です。これは一般入試までで募集定
員未満の合格者しかなかった学校で行われます。「二次入試」へ出願できるのは、そ
れまでの入試で公・私立を含めてどの高校にも合格していない者に限られます。「二
次入試」を行う公立高校はまず「偏差値ランク」下位校です。
3 定時制・通信制入試
定時制・通信制の公立高校では、「前期選抜」(平成23年度は3月9日実施)と
「後期選抜」(同じく3月28日実施)の2回が行われます。定時制高校では前期・
後期ともに、学力検査が行われますが、通信制では学力検査は行われません。後期選
抜は全日制高校の合否発表後に行われますので、全日制不合格者も受験できます。
4 私立入試
私立高校入試は、「推薦入試」と「一般入試」、それに「二次入試」の3段階で行
われています。「推薦入試」はいわば「単願」ですので、これに合格した受験生は必
ずその私立高校へ入学するというのが前提です。「推薦入試」を実施する私立高校
は、一定の調査書「成績基準」を事前に中学校へ連絡していますので、それに達して
いればかなり高い率で合格できます。一方、「一般入試」は、調査書の評定合計も勘
案されますが、主として「学力検査」の得点で合否判定されます。私立高校の一般入
試は、3日間の日程の内の1日で行うことになっています(試験日はそれぞれの高校
が決めます)。したがって、志望校の試験日が重ならなければ、「私学3校受験」ま
で可能です。「二次入試」は合格者が募集定員に満たない私立高校で行われますが、
実施するか否かは各学校が決めます。「二次入試」の出願資格要件は公立と同様で
す。
愛知県の高校は、一般的には「公立優位」です。いくつかの「進学有名校」を除け
ば、「私立高校一般入試」は「滑り止め」として受験することになります。私立高校
一般入試の合格者が入学者になるかどうかは、公立高校「一般入試」の結果によって
決まるのです。一般入試合格者が入学者になる比率(「歩留まり率」と呼ぶことが多
いようです)はかなり低く、学校による違いはありますが、ほぼ10%以下ではない
かと思われます。
5 愛知の公立高校入試制度の歴史
愛知県の公立高校選抜制度は、歴史的に4段階を経てきました。
第1段階は1948年の「新制高校」発足からの数年間です。この時期は「小学区
制」が実施されていました。(ただし、愛知県の公立高校は「総合制」はほとんど実
行されず、「小学区制」は普通科高校に限定され、「職業高校」は「尾張学区」と
「三河学区」の2学区、いわば最初から「大学区制」でした。)
第2段階は、1956年度から1973年度までの「大学区制」の時代です。普通科
高校の学区制が「尾張学区」と「三河学区」の2つに統合されたのです。この制度で
「学校選択」の幅は一挙に拡大されました。しかしそれは、「学校間格差」や「偏差
値による高校ランキング」を一気につくりあげてしまいました。「旧制中学校」・
「高等女学校」、特にその「ナンバースクール」を母体として創設された普通科高校
は、「ランキング」の上位に位置し、国公立大学などの進学実績は驚異的な高まりを
みせました。その半面で、「進学実績」を殆ど挙げることのできない公立高校が生じ
たのです。
「大学区制」が施行されるとほぼ同時に(1956年の中3生対象から)、いわゆる
全県的な「業者テスト」=模擬試験が行われるようになります。その得点状況は、志
望校別に一覧表にして公表されました。自分の得点を一覧表に対応させてみれば、志
望校受験希望者のうちで自分が何位になっているか、一目で分かります。各高校の
「偏差値ランキング」上の位置も一目瞭然になっていったのです。
第3段階は、このあからさまな「学校ランク」を多少補正しようとして、1973年
度に導入された「学校群制度」です。しかし、愛知県の「学校群」は、すべての公立
高校を覆うものではありませんでした。どちらかと言えば「進学校」の間だけで
「群」はつくられたのです。ランキングの順位の多少の入れ替わりはありましたが、
基本構造は変わりませんでした。その反面で、「群」で受験した生徒は、合格しても
自分の意思で実際の進学校を決めることができず、この面からの不満は相当強いもの
がありました。
こうした不満や批判に配慮して、1989年度入試から、前述した「複合選抜制度」
に切り換えられたのです。現行制度は第4段階に当たるわけです。しかし、これは
「制度改善」とは言えません。この仕組みの中で、高校進学希望生徒は、形の上で
は、8つの高校を受験することが可能です。8校受験して、7回不合格になり最後に
合格した1校に入学するという生徒もあり得るのです。もちろんそうなる生徒は少数
です。しかし、3~4校を受験するのは当たり前になっています。1校だけ受験して
入試が終わるという生徒は私学推薦入試の合格者だけです。公立推薦合格者は、合格
判定が出る前に実施される私立一般入試を1~2校受験するというのが通例になって
います。愛知の高校受験本番は、1月末の私立推薦入試に始まって、4月初めの通信
制高校「後期選抜」の合格発表まで、えんえん2カ月余りにわたって続くのです。
むすび
雑誌『教育』の2011年3月号は、「高校入試制度について」を特集しています。
後期中等教育の制度的差別化、高校の多様化、統合・再編が推し進められている今、
「後期中等教育をすべてのものに」を権利として保障する高校制度をどうつくるか、
巨大な生徒選別機構として機能している高校入試制度をどう改革するのか、それらが
大きな課題になっていると思います。
久田です。少々長くなって恐縮ですが、私自身の経験談を踏まえ、コメントさせてください。
私は1956年1月、名古屋市港区で生まれ、1971年3月(厳密に言うと私の場合は2月)に高校受験をしました。従って第2段階の「大学区制」でのほぼ最晩年の受験生です。
当時、愛知県の中学3年生は、柴田先生の言われる全県的な「業者テスト」(「中部統一テスト」=「中統」と当時呼んでいました)を何回か受けさせられました(有料で)。
受験結果は一覧表になって全受験生に配布されます。その表というのは長さ1m、幅40cmくらいあって、横軸が愛知県下全ての高校(確か私学も含まれていたと思う)、縦軸が模擬テストの合計点(5教科で、確か250点満点だったと思う)が1点刻みに表示されたマトリクスになっています。
そして、たとえばA高校は、200点の欄に1、199点に2、198点に5、197点に10、…、というように数字が記入されています。これは、A高校を志望した中統受験者で、200点を取ったものはこの学校の1位、199点とったものは2~4位、198点は5~9位、197点は10~位、…、という順位を表しているのです。併せて受験生ごとに自分の中学での校内順位とクラス内順位が別途に個表で渡されます。
受験生は一覧表を見て、志望校における自分の順位がその高校の入学定員以内であれば合格圏内で一安心、それ以下だったら圏内に入れる高校を他に探す、というわけです。と同時に、一覧表を見ただけで、愛知県内の各高校の序列が一目瞭然となるわけです。
ここで、「全員がその模試を受けるわけではないので、入学定員と比較するだけで合格可能性が分かるのか?」と疑問に思う方がいると思います。実は分かるのです。なぜならば、中学3年生のほぼ全員が受験するからです。
ついでに言うと、私の中学では放課後、進学用の補習が公的に(つまり中学の先生が教える)、それも有料で実施されていました。「中統」は確か年6回あったと思いますが、そのうちの3回は、その補習を受けていないと参加できないという仕組みになっていました。(これが全県的なものだったかは知りませんが)
他に、学校の近くに有名な進学塾があって、上位層の生徒の多くはそこに通っていました。その塾には近隣の高校の先生がアルバイトで教えにきていると、塾に通っていた生徒から聞いたことがあります。当時、公務員の兼職禁止が今ほど言われていなかったので、さもありなんと思います。塾の過熱ぶりが社会問題視されるようになったのは、その10年以上あとのことだったと私は記憶していますが、私のまわりでは1970年、大阪万博の年には、すでに過熱があったのです。
私は家庭の経済状態を慮って補習も受けず、塾も行きませんでした。独力でやれるという自負があったのも確かです。自分で勉強して、残りの3回の中統をうければいいと考えていました。
私の妹は1973年3月に高校受験をしました。つまり柴田先生が言われる「第3段階」の“1期生”です。その入試制度を「複合学校群制度」と呼んでいました。
これは、たとえば、名古屋市内という大学区で、A高校とB高校で1つの学校群、B高校とC高校で1つの学校群、さらにCとD、DとE、…、ZとA。というふうに、市内の公立(市立県立とも)普通科高校が隣同士、順繰りに手をつないで1周するようなものです。受験生はそのうち、どれか1つの学校群を受験し、合格者は、Aへ行くかBへ行くかは機械的に分けられるというものです。従って、A高校に入学する生徒は、A-B学校群の合格者とZ-A学校群合格者の半々ということになります。
前述の中統テスト等に見られる過熱ぶりに対する反省や、当時次々に誕生した革新自治体の潮流といったものが、この「複合学校群制度」を後押ししていたのではないかと、私はこれまで解釈してきました。つまり学校間格差をなくし平準化するという点で、この制度に一定の革新性があると感じていたわけです。その名古屋に革新市政が誕生したのは1973年4月(本山政雄市長)、「複合学校群制度」導入直後でした。確かその2年前の1971年だったと思いますが、愛知県知事選で革新側は新村猛氏(かの広辞苑の編著者)を擁立し、あと一歩まで迫りました。東京、大阪に比べれば田舎の愛知でも、美濃部知事、黒田知事に迫るものがあったのです。
受験制度自体は県の問題なので、市長の判断はどこまで影響を及ぼすのかよく知りませんが、本山市政は3期12年続き、1985年に保守系市長に変わったその4年後、第4段階の「複合選抜制度」が導入されることになるわけです。1980年代、とりわけその後半に入り東欧革命の影響で保守か革新かというような2極対立的な構造の揺らぎとともに革新陣営が弱体化し「複合学校群制度」を支えきれなくなった、と言えるのではないかと思います。
このように、一定の革新性があったと私は思っている第3段階「複合学校群制度」ですが、柴田先生は、?ランキングの基本構造は変わらなかったこと、?合格しても自分の意思で実際の進学校を決めることができないという不満、という2点で問題を指摘されています。
?については、その原因として、柴田先生も指摘している公立優位で、しかも普通科に限られていたことがあります(私の中学で公立普通科に行ける生徒はクラスの上位数名だった)が、他にも公立高校立地の偏りがあるのではないかと思っています。
私の居住する港区を初めとする名古屋南西部は、江戸時代以後の干拓・埋立で造成された地域で、1959年の伊勢湾台風(私の家は床上浸水40cmが1週間続いた)のようにしばしば水害に悩まされると同時に、名古屋港周辺の大工場による環境汚染地帯でもあります。さらに、港区には公立高校は2校(うち1校は私が中学3年の時新設)しかなく、大学は未だに1校もないという、教育“過疎”地域です。ちなみに、港区と京都府宇治市はだいたい人口が同じですが、宇治市には府立高校は5校(今は1つ減らされて4校)ありました。
このような地域格差がもともとあるため、距離の近い高校同士で学校群を作ったとしても、それまでの学校間格差が、山の手の学校群と下町の学校群という学校群格差に置き換わったに過ぎなかった、それが柴田先生のご指摘?の中味だと思います。
しかし、もっと過激な制度改革、たとえば、山の手のトップ校と下町の下位校で学校群を構成するような制度を、当時もし作っていたとしたら、どうだったでしょうか。私は、おそらく、受験生からも市民からも支持されなかったのではないかと思っています。「高校というものは格差のあるものだ」「行けるものなら通学時間をかけてでも上位校に行きたい
(合格するかどうかという実態は別として)」という、上位層を中心とする市民的な感覚は厳然としてあったからです。?の不満は、そういった市民的な感覚から来ていたものと考えられます。
私は1979年に京都府立高校に赴任しました。京都では1978年に蜷川革新府政が倒れ、1985年に高校三原則(特に小学区制)が廃止、類型制及び通学圏制度(中学区制)に変わりました。それでも当時、?の不満、つまり旧制度の小学区制では行ける高校が地域で決められることへの不満があったことも事実ですが、面談で生徒の話を聞いたり、家庭訪問で親の話を聞いたりすると、むしろ「地元の高校に行けたらいい」と考える人の方が多く、私の中学・高校時代に感じていた高校に対する感覚との違いに驚いたことを覚えています。つまり、長い間京都では高校三原則を守ってきたことで、市民的な感覚として「地元の高校」があったのです(勿論、それは公立普通科内のことであって、公私間格差は依然としてあった)。その京都も、今では随分変わりましたが。
高校を全人格的な成長を保障する場として捉えるのかそれとも高等教育への単なる接続の場として捉えるのか、あるいは将来の安心設計とは何か、そのための社会づくりはどうしていったらいいのか、こういった高校像や社会像についての市民的な合意が政治的な判断と結びついていったとき、真の高校入試制度の改革につながるのではないかと思います。
上記文章の中程に「?ランキングの基本構造は変わらなかったこと、?合格しても自分の意思で実際の進学校を決めることができないという不満」というように、わけのわからない「?」の記号が入ってしまいましたが、これは○数字で1、2としたのが、誤って変換されたためです。前者の?を1、後者の?を2として、以下お読み下さい。(久田註)