最近、外で飲むとき一人酒が多くなった。群れて話しながら酒を飲むことに疲れたからなのだが、一人で飲んでいると多くの人たちと触れる機会が増えて刺激的でもある。そればかりでなく、多様な価値観を浴びることによって、日常の澱のようなストレスが解消されていくのである。
先月、こんなことがあった。
文化祭2ヶ月前、各係が生徒総会を前に議案づくりをする会議があって、私は会場係を割り振られその係会に出席した。係長の原案は、「例年どおり教壇を運ぶので、重いから怪我をしないように。」といった内容が素っ気なく2行記述されているだけ。各HRから集められた係の生徒からは質問も意見も出ず、私も発言などしたくはなかったのだが、教師の役目だろうと、「ダンスコンテストの企画にもとづいてステージは設計されているのか。昨年問題になった安全性はどう検討されているのか。」と穏やかに発言した。係長はいかにも面倒くさそうに、「そんなことは実行委員会に聞いてくれ。去年のとおりにやるだけだ。」と言い放つではないか。係長の関心は、連絡のために係員のメールアドレスを集めることにあった。少々むっとした私は、「執行部が会員にお説教するような内容が総会の議案になるのか。600人の議論に耐える原案の体を成していない!」と声を荒げた。係長の近くにいた同じ3年生がウルセエナアとつぶやくのが聞こえた。
その晩よく眠れなかった私は、翌日、生徒会顧問に係長会ではどんな議論をしているのかと尋ねた。時間がないから係長会は開いていないという。議案づくりはどうしているのかときいて、前日の様子を話すと、「まだ子どもだから、そんな次元の高いことを要求するのは無理だ。」と顧問はいった。
居酒屋のカウンター越しに事の顛末を店の主人に愚痴ると、「俺なら胸ぐらつかんで殴ってるな。」と笑いながらいった。生徒もオヤジも似たようなものだと内心思いながら、このストレスは排泄された。
東京大会のテーマと講演にかかわって、名古屋大の田中哲樹氏の『熟議の理由―民主主義の政治理論』(勁草書房)を読み始めた。わからないところは読み飛ばしているが、考え方は興味深い。上條さんに紹介されて読んだ『思想としての共和国』と対比してみると、民主主義への認識が少し深まるような期待がある。
だが、我が身も含めて現代人の日常生活に熟考の場面がどれほどあるか。ICTの発達は思考の瞬発力は鍛えたが、熟考する力は衰退させたのではないか。声高に詭弁を弄する政治家に多くの若者の支持が集まる。これは決して大阪だけの現象ではない。いいのかこんなに「未熟」になって!と、先日のストレスがぶり返してきた。ここしばらくは熟議について考えることになりそうだ。
(長野・小澤)