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『オウム真理教の真実』より

 5月26日(第1,2回)、27日(第3回)に放映された『NHKスペシャル・未解決事件02
 オウム真理教17年目の真実』を見た。死刑が確定した教団幹部の手紙、麻原演説を記
録した膨大な量のテープ、NHK独自の取材、こういったものをもとに、ドラマ仕立て
でオウム真理教とは何だったのかを追求するドキュメンタリーである。
 ドラマ(第1,2回)は、一人のNHK記者が今は夫婦になっている二人の元信者から当
時の状況を聞くという展開になっていて、信者が信じるところの「救済」が、いつから
「武装化」に転じたのかを問うことがポイントである。ドラマでは、一人の信者が修行
中偶発的に事故死したことを麻原の指示で隠蔽したこと、及びその翌年、脱会を図る信
者をやはり麻原の指示で殺したこと、この2つをきっかけに、「救済」の名のもとで人
殺し(ポア)を容認するという方向へ舵を切ったのではないかと推理している。一方、
第3回では、元幹部の上祐の証言、教団の出版物、前述のテープなどを通して、教団設
立当初から、麻原は武装化を企図していたと分析する。私が注目したのは実は、この武
装化の時期の問題ではなく、「救済」そのものに潜む落とし穴についてである。
 世の中には、困っている人、悩んでいる人を「救済」する様々な「宗教」や「ビジネ
ス」がある。「ビジネス」はともかくとして、宗教はそもそも救済することを目的とす
るものだと思うのだが、そこはくわしい人に譲るとして、私が問題にしたいのは、「救
済」の名の下、人の弱さにつけ込むことの危うさである。同番組のドラマ部分でも、一
人の若い女性が、仕事上の悩みがきっかけとなってオウムに入り、修業によって達成感
を得て、オウムに「救済」された、と感じる。
 翻って、高生研でも、2009年の基調で礒山さんが「〈弱さ〉で支え合う関係を学校に
」と題して、「弱さを自覚した子どもたちと自分の無力さを自覚した教師がケアと癒し
を含み込んだ応答的な場」として学校を再構築する必要性を説いた。聞く人によっては
、これは、人の弱さにつけ込んだ「ビジネス」「宗教」とも受け取られかねない。例え
ば、悩みを抱えた生徒や教師がいて、その場に居合わせた善良な教師がその悩みを解決
してあげたいと考えたとしよう。その瞬間、その教師は「麻原」ではなかろうか。悩む
者とそれを解決してあげる者という一方向的な関係しか、そこにはないからである。こ
こに「救済」の落とし穴があると、私は考える。
 では、どこに着目し、どう実践することで「救済」の落とし穴にはまらないですむの
か。
 前述の元信者は、オウムが武装化していることを知り、オウムに疑問を呈するように
なる。その都度マインドコントロールされ、抜け出せずにいたのだが、地下鉄サリン事
件がおき、その直後、ついに脱出する。つまり、疑問を呈するという主体性を残してい
たことが、皮肉なことに、彼女自身を救うことになったのである。
 これまで高生研は、予定調和的な「団結」に懐疑の目を向けてきた。「子どもは無垢
で善良」という楽観主義的な子ども観を排してきた。「文化祭で優勝しよう!」という
ような物取り実践を否定してきた。また、班とは「矛盾を顕在化させる装置」と定義し
たこともあった。つまり、集団の中で個々の主体性が保障されていることが必要で、そ
こで生じる矛盾・対立を敢えて引き受けることで、集団の発展があると考えてきたので
ある。平たく言えば「文句が言える」場の保障である。つまり、「救済」に関して言え
ば、「あなたの悩みを私が解決してあげる」という関係を作るのではなく、悩みを悩み
として、疑問を疑問として出せる場を保障し、その解決に向けてともに考え、実践して
いく。その際、矛盾対立が起きることも、悩む者・聴く者双方が自己変革を迫られるこ
とも辞さない、ということである。礒山さんがいう「応答的な場」には、そんな意味が
含まれているように思う。
 オウムの問題は、ただの狂信的な集団の犯罪としてみるのではなく、集団というもの
が潜在的に持っている陥穽に対する警鐘としてみる、この番組を見て、私はそう受け取
った。
 追伸。番組の中でもう一つ面白い指摘があった。それは、麻原が信者を洗脳する手口
が、学校で教師が生徒に発問し正解にたどり着かせる指導法と酷似しているというもの
である。「学ぶ」とはどういうことか。改めて考え直す必要があると思った。
久田晴生

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