第51回大会を振り返って、開催地京都が担った仕事を挙げてみますと、会場決定・会場校との折衝・交流会会場の確保・教委への後援申請・大会事前申し込み受け付けと参加者名簿の整理・大会会計・受付関連物作成と業務・封筒作成・しおり作成・名札作成・弁当手配と配布・オープニング行事の企画準備から運営まで・全生研とのコラボ企画の発案内容決定から運営まで・開催地企画交流会の開催・学生ボランティア募集と統括・学生独自企画の発案と協力援助・さらに大会3日間の運営面にかかわる人の配置計画・張り紙の一部・そして、ごみの分別管理と処理でした。開催地スタッフは女性7名男性3名―20代から50代までの異年齢グループでした。
大会後、あるメンバーから「仕事も分科会参加も両方できて、とても達成感がある。」という声がありました。「楽しかった!」という声も。一昨年、旧高生研書記局から「京都で2013年度大会を引き受けていただけないか」と要請を受けた際には、「開催地の仕事としては、会場を押さえてもらうだけでいい。その他はすべて大会グループでやりますから。」ということでした。ところが、京都のグル―プに集まってくださったメンバーが「自分にできること」を一つ一つ引き受けてくださった結果、上記に紹介したような多くの内容を開催地で担うことになったのでした。もちろん「楽しかった」だけではなくて、私たちみんな、多かれ少なかれ”無理“をしながら大会終了を迎えましたが、「達成感」が共有されたのは間違いありません。<田中容子>
学生・高校生STAFFが開催地メンバーに入ることが決まってから、私の意識は、「最後の最後の瞬間まで、私のする『仕事』は教育活動である」に集約されていました。自分の勤務校でしているのと同じく、学生・高校生にとってどんな学びの機会を提供できる京都大会開催になるのか、という意味です。そして、プロセスとゴールを私なりには緻密に考え行動していました。ゴールには「『未来』を見せることができる場」を思い描いていました。「未来」とは「希望」「期待」「明日」のようなイメージです。
参加者組織と運営実務とは、「魅せる場の演出」「出会いのコーディネート」「『役者』に揃ってもらう」そんなことの繰り返しで、時に思わぬ方から救われピンチを乗り切ったり、ぬか喜びだとわかって凹んだり、道のりは決して平坦ではありませんでした。大会直前になっても参加者数の伸びがゆっくりだったこと、「組織の再編」の結果、「グループ型」での活動では一人のグループ員が複数のグループ員を兼務していたり事務局メンバーであるため同じ人に同じ時期に負担が重なること、顔を合わせての会議の設定には財政的にも制約があり、新しいメンバーがいても周辺会話の生まれにくい環境が残っていたこと、物理的距離もあり結局作業を一人で完結しなければならないため、ぬかったことが生じたり……従来の常任委員会体制に比べ、全体を俯瞰したり、時に非情に思われても厳しくチェックしたりする機能を担う部署がないのではないかと思うこともしばしばで、当事者性を不安に感じたり焦りもしました。
そういうとき私が胸に刻んでいたのは、以前、生徒といっしょに進行していたプロジェクトの最終局面で物理的な危機が起こり、私が無茶を承知で動こうとした時、Kくんが言った「俺らを信じて待つ、それがヤスコの仕事」という言葉でした。やることをやってそれでも起こることについての身の処し方を、18歳から教わった瞬間でした。
学生スタッフ(特に私の勤務校出身者)と私とのやりとりを見聞きして驚かれた方もおられるかと思うので、この場を借りて解説させてください。私は元来「さん」「くん」づけで生徒を呼ぶ教員生活を送ってきました。ところが、この2年余りで、学校には違いないけれど、教師―生徒というよりチームのような関係でいくつかの教育改革を生徒集団と教員集団でやってきました。もちろん、私は教師で、生徒は生徒なのですが、私は彼らを、彼ら同士が呼び合っているフルネームやニックネーム、姓・名の呼び捨てで呼び、彼らは私を「ヤスコ」とか「ヤスコさん」と呼ぶように変化してきました。お互いの立場・責任範囲は異なるけれど、「固有名詞の関係」といいますか、そのほうが自然になっていったのです。慣れあいや乱暴さを感じた参加者もおられたかもしれません。でも、今、彼らと私との関係ではフォーマルな場面では、私は生徒を「さん」「くん」付け・生徒は「キシダ先生」で、「インフォーマル」だとあのような感じになっています。これがどうなのかについては、まだこれからやってみて、マズければ修正して……を繰り返して探していきます。
話を元に戻して……新高生研になっての初の大会を京都でとの要請があったときには、全生研とのコラボによる近ブロ「教育ゼミナール」が200名の参加で盛況に終わった直後だったこともあり、夢をいっぱいもらったような気分でいましたが、「全体で200名、京都で60名以上」という参加目標を達成することがどれほどのことだったのか、もちろん数には内容とそれまでの活動の充実が必須なのですが、東京大会以降自分のやったこと・やれなかったこと・やらなかったことについて、少し時間をいただき丁寧に自分の総括をしたいと考えています。
そして最後に、「『未来』を見せる」というゴールは達成できたのか? 私の答えはNot yetです。そもそも「『未来』を見せる」とか言ってる時点で、自分がおこがましくて今は恥ずかしいです。一番近くで私の無茶・無理な行動(ご存知の方には、いつものことですが……)を黙って見ていたTによると、「『未来』は見せられなかったかもしれないけれど、『現実』は彼らは見てたんじゃないかな?」と。学校の先生たちが裏でこんなふうに学んでいるんだとか、授業や行事や生徒へのかかわりはこんなふうに巧まれていたのだとか、それでも、教師も人間なんだ、とか。高生研を立ち上げられたT先生によると、「この3日間での学生の変化が、定着すれば本物なんだけどね」とも。
これでほんとに最後です。長文になってすみません。トートバッグ、ご購入ありがとうございました! ぜひ、ご自分のためだけでなく、使ってください。あれを持つことや介在させることで、高生研や教育に関わる全てのひと同士のかかわりが広がっていってほしい、という生徒の願いを表したものです。サークル開催や会員増でなくても、持つこともひとつの広め方。「容れもの」であるバッグにしたのも、あの色や形にデザインしたのも生徒のコンセプトによります。
ちなみに版はTャツや他の物への転用など、高生研がいつでも使えるようになっています。
これからです!<岸田康子>