近年「新任教員」のことがとても気にかかります。
素朴な情熱、「教育愛」を支えに「専任教員」になろうとしても、何年もかかったり、新任研修や新任指導で神経をすり減らしたり、同僚関係の希薄な中で孤立して自分を出せなかったりと、聞くだけでも暗澹とするばかりです。
就職の苦労もろくにせず、「良き時代」に甘えていた私の場合とは天と地の違いです。自分のことを恥ずかしく思う以上に、青年を育てることをせず体制維持のために青年をつぶしていく教育行政の状況に、憤りを覚えます。
08年度より、誘いがあってある私大に出向いています。普通の教職関係の講座ではなく、教育実習のための指導を目的とするもので、実質半期余りの特殊な講座です。学級担任のような仕事だと、自分では思っています。
教育実習をしても、実際には教職に就かない学生もたくさんいますが、真剣に迷ったり、やっと決意しての教職志望の学生も一定数います。現場に入っての初め二、三年を、どのような状況下で自分の教職人生をスタートさせねばならないのか。
それを思うと、とても安易な理想、希望、理念など、言えません。大学できちんと学ぶことは、現場での大きな齟齬を生む元にもなる、と覚悟したうえで授業するべきなのでしょう。
現在の学校現場で生き抜いていく力を、学生とのわずかなふれあいでどう育て、支えるのか…私にはそれに応える力量がありません。どこにでもいいから、友を得、職場に少しでも話せる同僚を得る、どこでもいいから自分のことを話せる場を得る、などと話すしか、私にはできません。
そんな中で、一つの光を見ました。それは、雑誌『教育』(国土社・教育科学研究会)09年4月号の「若い教師のたまりば〈エデュカフェ〉」で初めて知りました。
京都市内の公立小学校に勤め始めた若い女性教員が、誘われて組合に入ったようですが、組合の事務所はやたら汚くて乱雑だったと言います。あまり人も来ないし、この人は自分で勝手に部屋を掃除し、少しでも来やすい部屋にしようとしました。
コーヒーも入れて、お菓子も食べられる、そんな部屋にしました。そこで月に一度は何でも話せる場を持ち、メールでいろんな人に誘いかけて、数人の仲間を得るようになったといいます。
ここにもサークルの原点があるように、私には思えます。たった一人の思いが形になった、とてもささやかなものです。もちろん、教育現場にいることがその人たちの共通項ですが、カフェですから、お勉強的な雰囲気を求めているわけではないようです。「居酒屋教研」から「教研」を取ったようなものだろうと、私は理解しています。
エデュは、教育現場にいる共通項のことかな、と思います。何年続けるかとか、どう広げるかとかは、あまり問題にすることもない、そんなサークル。やはりこれが原点なのだろうなと思います。こういう寄り合いがあることを知るのが、私たちの力になるのではないでしょうか。
昨年の秋に、京都新聞でこのサークルが取材されていました。記者の意欲が伝わってくるいい記事でしょうが、何と集まる人たちが数十人になっているそうです。月々の会には十人ぐらいが集まって親しく話せるのならいいのですが、実際にはどんな具合なんでしょう。そんなに大きくなるのは、ちょっと早すぎたのではないかなと、勝手な危惧を抱いてしまいます。でも、それだけ場を切実に求めていた人たちがいることも見えてきます。
このエデュカフェは、いろんな風に形を変え、仲間が移ろい、おもしろい広がりを見せて、種々の場になっていくでしょう。折々に、生まれたり、水面下に潜ったり、なんかそんな営みを見る思いがします。これが私たちの生き抜く力なのでしょう。
京都 寺井 治夫