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問題別分科会3 「ケアの倫理」と「コミュニケーション」から実践の課題を探る

問題別分科会3の運営を担当する藤本幹人です。すでに報告者の内田理さんから、この問題別分科会のねらいが当ブログに投稿されていますが、そこで触れられているハラスメントについて少し書きます。

 

セクハラ、パワハラなど世の中はハラスメントという言葉であふれています。ハラスメントは学校現場を見るひとつのキーワードであるように思います。

 

それでは、ハラスメントとはなんでしょうか。辞書で引くと、いやがらせと出てきます。内田さんが参考にする『ハラスメントは連鎖する』(安富歩)の説明によると、ハラスメントは、単なるいやがらせではなく、継続しておこなわれる一方的な意思のおしつけです。しかもその一方的なおしつけという意図は隠されているという特徴を持っています。

それは、もっともらしい理由をつけておこなわれることによって、一方的な押しつけであることを隠します。

たとえば、提出期限を守れなかった場合は、その日のうちに家に取りに帰りなさいとか、成績が不十分な場合は、大量の欠点課題を夏休みにやってもらいますなどというような場合、これは、あなたが将来、提出物に遅れない人間になるために、勉強をしっかりやる人間になってもらうため、つまり、あなたのためを思ってやっているのです、というようにです。

 

これらのかかわりは、一見、やり取りがあるように見えますが、コミュニケーションは不在です。

それではまっとうなコミュニケーションとはどういうものでしょうか?また、まっとうなコミュニケーションと学びはどういう関係にあるのでしょうか?安富氏は、まっとうなコミュニケ―ションとして次のような例を挙げています。

 

昼寝から少年が起きたとき、すでに花火大会は終わっていた。翌朝少年はぐずり始めた。母は尋(たず)ねた。「何が悲しいの?花火が見られなくて残念なの?」。少年は何かを考えていたが、しばらくすると再びぐずり始めた。「お姉ちゃんと一緒に行けなかったことが悲しいの?」。少年は再び何かを考えていたが、しばらくするとまたぐずり始めた。「出店(でみせ)でおやつが食べられなくて悔しいの?」。少年はそれまでとちがう反応をした。「そうだ。僕は悔(くや)しいんだ。寝過ごしてしまった自分が悔(くや)しいんだ」。悔(くや)しいという言葉をきっかけに少年は、これ以上、ぐずることがなかった。

 

このように、他者(この場合は母)の力を借りながら、言葉を介して世界に対する自分の情動反応を探(さぐ)り当て、自分の文脈をつくりあげる営みこそが「学び」であり、そのような学びを生み出すやり取りが、まっとうなコミュニケーションだと安富氏は言うのです。

(滋賀県・藤本幹人)

 

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