堂々庵
先日、『わたしは、ダニエル・ブレイク』という映画を観ました。このことを期に応援ブログ記事を連載執筆(半月に一度ほど書くつもり)する決意をしました。
主人公はダニエル・ブレイク。イギリス北東部ニューカッスルで大工として働く59歳のダニエルは、心臓の病を患い医者から仕事を止められます。国の援助を受けようとしますが、複雑な制度が立ちふさがり必要な援助を受けることが出来ません。
手続きをするのにパソコンを操作して申請書をダウンロードしなければならないのですが、ダニエルは「マウスを動かして」という説明を聞いてもモニター画面の前にマウスを近づけようとして苦笑されます。やっとの思いで「OK」ボタンをクリックしてもエラー。そうこうするうちにパソコンがフリーズ。「誰か解凍してくれ!」「今までの時間が水の泡だ」とダニエルは頭を抱えてため息をつきます。
同じような経験、このような焦燥感を味わった方は共感してしまうのではないでしょうか。昨今の教育現場でも何かと手続きにパソコン操作を強いられることがあります。特に「ログイン名」入力と「パスワード」の入力をパソコンが初見で求めてくる時は頭が混乱してきます。これが出てくると中にはアレルギー反応を示す人も居るのではないでしょうか。
そもそもパソコンという「繋がらなければ」意味がないものに、「簡単に繋がらない」仕組みが必要(不正なアクセスによって情報が盗まれないよう)になったことによって構築された「取り決め」でしかありません。
(ここから先、ちょっと専門用語が入るので難しくなったらごめんなさい)
わたしは昔(20代の頃)、Macのパソコンで画像や映像をいじることを夢見てました。そのころはMacのコンピュータは数十万する代物でとうてい手が出ません。なんとか手が届くところにwindowsのパソコンがありました。次に、わたしはMacとwindowsとの互換性について考えるようになりました。「windowsで作ったファイルを将来Macでいじれるようにならないか!?」と。
こう考えること自体が特殊なのかどうか分かりませんが、市場原理としても同じような力が働いていたようで、今ではほぼどちらのOS(MacOSとかwindowsといったプログラムが動く基幹ソフト)上で作成されたファイル(文書や画像、映像)も互いに読み書き可能になっています。
「コンピューターやOSの設計者や企業はわざと互換性を持たせないようにしている!」とか、「『管理者権限』とか『SE(システムエンジニア)』なんてコンピューターの運用面で『独裁者』でしかない!」と考えました。
今回観た映画とは別の所で、わたしは「『繋がらなければ』意味がないものに、『簡単に繋がらない』仕組みが必要になったことによって構築された『取り決め』」について考えていたのでした。そのことが今回の執筆踏み切らせた切っ掛けです。一言で言えばディ
スコミュニケーション(dis-communication)。暴力に匹敵する内容かも知れません。
その2につづく
参考)『わたしは、ダニエル・ブレイク』2016年作品、100分、ケン・ローチ監督。
http://danielblake.jp/