月: 2020年5月

果たして何を決意すべき時なのか

疲れの原因

最近、やたら疲れてしまう。
理由ははっきししている。緊急事態宣言と称され、休校措置が執られ、
学校現場は県教委の号令のもと、オンライン授業に取り組むことになった。
「オンライン授業」は、インターネットを介して自宅と学校とで教師と生徒が
双方向で授業に取り組むことを意味する。
聞こえはいいが、その為の通信機器は生徒自身が持つスマートホンで通信費は
保護者が対応することになる。
自宅にインターネット回線が引かれていない家庭は、携帯通信網を直に使い
学校のオンライン課題に取り組まなければいけない。前提なき個人負担が強いられている。

「しかたがない」で蹂躙

たちが悪いのは、「しかたがない」でいくつものことが蹂躙されていくことだ。
「生徒らはほとんどがスマートフォンでの対応しかできない。」「しかたがない。やらないよりましだ。」
「教師側から送っている画面に応答してこない!」「しかたがない。そんなに高いレベルは求めていない。」
「生徒たちのスマートフォンにどう映っているか分からない!」「しかたがない。その解説を示している余裕も時間もない。」
「オンライン授業で課題の提出の方法が教師も生徒も分からない!」「申し訳ないが、自分たち教員でその辺りを探りながらやってくれ。」
「あなたは、オンライン授業に導入されたツールを使えるのか?今の現状が分かっているのか?」「しかたがない。やれる範囲でやってくれ。」
「それは、この日本社会のアベノマスクを配ってしまうのと同じじゃないのか?」「しかたがない。やらないよりはましだ。その国の中にある県の方針の一貫だ。」
・・・・・どうしても疲れるのだ。(応答は想像した仮定)

応答関係にない世界からの脱出

明確になってきたことがある。
応答関係をつくろうとしないところに、われわれが振り回されているからだ。
われわれは、ネット環境を多用するあまり、今までの日常にあった「自己複雑性」を喪失していっているという指摘がある。この「自己複雑性」は、人と会話するだけでも、会社に行って仕事の話をしたり、家に帰って家族と会話したり、場所と人を変え多様で複雑な日常があることを意味する。その複雑さが、ネット端末の前に喪失していくというものである。またこの喪失は、ストレス耐性をそぐ要因になるといわれ、疲れの原因の一つということができる。
ネット環境は、うまくいけば遠隔でのコミュニケーションができ、応答関係が結べるツールである。しかし、応答関係をリアルな世界でイメージしたとおりだと考えることはできない。日頃から、コミュニケーションが不得意な人は、仮想空間でも苦手な意識が働くだろう。ネット端末、情報機器、コンピューター、タブレット、スマートフォンというブラックボックス的道具がそれなりの壁として立ちはだかっている。ソフトの設計思想やインターネットの仕組み自体が、様々な目的で発展してきていることから、オンラインの取り組みが全て肯定されると捉えるべきではない。
コミュニケーションは互いに求めなければ成り立たないのだ。その為に「自ら意図し使える所はうまく使う」道具と見るべきだろう。

昔なかったものが照射する温故知新

コロナウィルスは、はっきり地球の空気をきれいにしてくれている。ウィルスは見えないが、都市封鎖などにより目に見えて世界の空気が澄んできている。間違いなく、星空が綺麗だ。
オンライン授業に取り組もうとする中であぶり出される様々な課題。これらは、リアルな世界のコミュニケーションのあり方を問うものである。
多様で複雑であるが故に、この世の中は価値が生まれ、そのこと自体が尊い。
教育のあり方、オンラインを含めたコミュニケーションのあり方を考えるまたとない機会だと捉えるべきではないだろうか。

大会グループ  安藤誠也  2020/5/12