カテゴリー: つれづれに

わたしは ダニエル・ブレイク か? その④(最終回)認知の壁、自分の壁

堂々庵

この連載の各タイトルに「○○の壁」という言葉を付けてきました。養老孟司さんの影響なのかもしれません。(『自分の壁』という新書も出ています)
私が書きたいと思ったことは、人それぞれに物事に対しての感覚のズレや認知する違いがあることです。そして、そのズレをいかに埋めるかについて考察したいというものです。

難しい話になることを恐れず語ります。
脳科学のおいて「人は<自由意思>を持つか」という研究が進んでいるそうです。<自由意思>とは、自分の考えで行動しているといいきれる状態を意味します。この研究の脳科学の分野での一定の結論として、外的要因によって行動が決定づけられているといわざるを得ない状況、つまり自身の意思で行動を決めているとはいえないとしているそうです。いってしまえば<自由意思>はないようなのです。
「自分の意思で自分の行動を決めているつもりだったのに、そうではなかったら自分の存在とはいったい何だろう?」などと考えてしまいそうですが、そこはちょっと置いておきます。
ここで、違う側面について考えてみました。
「なぜ人間は社会をつくっているのか?」ということです。社会をつくらなければ生きられない動物なのではないかと考えてみました。たとえ(仮に)<自由意思>がなくとも社会を形成している人間であることは間違いないと思ったからです。

高生研では、<生活指導>を「生活に指導される」という意味に位置づけ、個人や集団の関係性に注意深く考察する中から研究、協議を行っています。ここにある「生活」という言葉を社会の関係性の中でどう生きるかという意味でとらえてみると、人々が形成する世界においてその諸相を分析し新たな関係性を再構築するために、あらゆる局面で生活指導の観点が有効であるように思うのです。この連載でも取り上げた、ダニエル・ブレイクの「福祉国家」についても、また、学校現場、さらには行政サービス窓口やIT・ネット社会との軋轢に対して見過ごせない観点を示しているように思うのです。
改めて自分の周りを見渡すと、「最近、Eメールを開けるのが億劫になった。」と感じている人が多くいるのではないでしょうか。今から10年ほど前はメールのやりとりを大切にして頻繁に行っていたのに、今はPCが重くなって困っているとか・・。PCが調子が悪くなって、その後メールを見る環境が変わってトラブル続きとか・・。
ブログの担当だったので分かるのですが、以前はふつうにできていたメールでのやりとりがまったくスムーズではありません。まるで刺激に対して飽きが来たようなあるいは抗体ができているような感じですらあります。簡単なメールでの意思疎通でも返ってこなかったりしっます。私は一種の「(物理的・人的な)システムの老化」みたいなものだと思っていますが、そう考えると、それらのアクセスをよりスムーズに行うためにはより多くのエネルギーが必要になるのです。(こう考えるのは私が生活指導に依拠する人間だからではないかと思います。)

ダニエルは最後に心臓病が悪化して、社会のセイフティーネットに抱かれることなく死んでしまいます。映画を見るとやりきれない気持ちになる反面、それで終わりではないという闘志のようなものが沸いてきました。「わたしはダニエル・ブレイクか?」と、映画のタイトルを疑問形にしたのは、2つの意味を持たせようとしたからです。「何があっても社会と関わりを持っていこうとするダニエルのようにあるべきだ!」というものと、「死んでしまうような立ち振る舞いでダニエルのように自分を追い込んでいっては元も子もない!」というものです。
はっきりと言えることは、止まっているのではなく前に進もうとする自分を常に問い続けたいという思いを込めてつけたタイトルのでした。

この世界で起こっていることは、目の前の社会とつながっていることです。
静岡大会まであと20日を切りました。是非大会にお越し下さい。

「わたしは、ダニエル・ブレイク か?」その1 パソコンの壁

堂々庵

先日、『わたしは、ダニエル・ブレイク』という映画を観ました。このことを期に応援ブログ記事を連載執筆(半月に一度ほど書くつもり)する決意をしました。

主人公はダニエル・ブレイク。イギリス北東部ニューカッスルで大工として働く59歳のダニエルは、心臓の病を患い医者から仕事を止められます。国の援助を受けようとしますが、複雑な制度が立ちふさがり必要な援助を受けることが出来ません。
手続きをするのにパソコンを操作して申請書をダウンロードしなければならないのですが、ダニエルは「マウスを動かして」という説明を聞いてもモニター画面の前にマウスを近づけようとして苦笑されます。やっとの思いで「OK」ボタンをクリックしてもエラー。そうこうするうちにパソコンがフリーズ。「誰か解凍してくれ!」「今までの時間が水の泡だ」とダニエルは頭を抱えてため息をつきます。

同じような経験、このような焦燥感を味わった方は共感してしまうのではないでしょうか。昨今の教育現場でも何かと手続きにパソコン操作を強いられることがあります。特に「ログイン名」入力と「パスワード」の入力をパソコンが初見で求めてくる時は頭が混乱してきます。これが出てくると中にはアレルギー反応を示す人も居るのではないでしょうか。
そもそもパソコンという「繋がらなければ」意味がないものに、「簡単に繋がらない」仕組みが必要(不正なアクセスによって情報が盗まれないよう)になったことによって構築された「取り決め」でしかありません。

(ここから先、ちょっと専門用語が入るので難しくなったらごめんなさい)

わたしは昔(20代の頃)、Macのパソコンで画像や映像をいじることを夢見てました。そのころはMacのコンピュータは数十万する代物でとうてい手が出ません。なんとか手が届くところにwindowsのパソコンがありました。次に、わたしはMacとwindowsとの互換性について考えるようになりました。「windowsで作ったファイルを将来Macでいじれるようにならないか!?」と。
こう考えること自体が特殊なのかどうか分かりませんが、市場原理としても同じような力が働いていたようで、今ではほぼどちらのOS(MacOSとかwindowsといったプログラムが動く基幹ソフト)上で作成されたファイル(文書や画像、映像)も互いに読み書き可能になっています。
「コンピューターやOSの設計者や企業はわざと互換性を持たせないようにしている!」とか、「『管理者権限』とか『SE(システムエンジニア)』なんてコンピューターの運用面で『独裁者』でしかない!」と考えました。
今回観た映画とは別の所で、わたしは「『繋がらなければ』意味がないものに、『簡単に繋がらない』仕組みが必要になったことによって構築された『取り決め』」について考えていたのでした。そのことが今回の執筆踏み切らせた切っ掛けです。一言で言えばディ
スコミュニケーション(dis-communication)。暴力に匹敵する内容かも知れません。
その2につづく

参考)『わたしは、ダニエル・ブレイク』2016年作品、100分、ケン・ローチ監督。
http://danielblake.jp/