月別: 2017年7月

一般分科会3 「したがわせる教育から自他の声に耳をかたむける教育へ」

「去年のクラスは割とうまくいったのに、今年はなかなか・・・」

「的確な指導(指示?)のできる先生を生徒は求めているのでは?」

「私は、生徒になめられているような気がする」

「学校の管理的な雰囲気に飲み込まれそう」

「生徒との距離が取りづらい」

そんなことを1つでも考えたことのある方は、ぜひこの分科会へ。

 

報告者の東山さんは、転勤後すぐに1年生を担任します。そのクラスは、東山さんの指導方針をおおむね受け入れ、東山さん自身もなかなかいいクラスになったかなと思っていました。

そして2年目、誰も引き受けたがらないある生徒をクラスに迎え、なかなか彼女との関係が取れません。また、1年生の時に「強い指導」「引っ張てくれる担任」を経験した生徒たちが、東山さんを「なめている」様子。学校は、管理主義的雰囲気が強く、生徒たちも表面法はおとなしくしたがっているように見えます。でも、そんな雰囲気になじめない生徒も出てきます。

東山さんもいろいろ悩み、考え、生徒への接し方を工夫します。そして、生徒たちは・・・。

管理主義的な雰囲気の強い学校で、どうすれば「アメとムチ」ではない指導が生徒に届くのか、参加者で考えます。で、報告者・参加者とともに打開の方向を探りましょう。

静岡でお会いしましょう。大会開催まであと10日。

高生研大会応援ブログをご覧の皆さま

1学期も終わり、少しほっとされていることと思います。

さて、全国大会も、開催まで、あと2週間を切りました。

今年の全国大会のテーマは「『なめられる』教師が教育の新たな地平をひらく」です。

いま学校は、生徒をしたがわせなければならない、なめられてはいけないという強迫観念にとらわれてはいないでしょ うか?

1日目の全体会では全国大会のテーマと同名の基調討論発題をもとに討論が行われます。この基調討論発題のサブタイトルは「『ケアの倫理』に導かれる自治実践を構想する」です。

ケアの倫理とは、生徒のひそやかな声に、そして自分自身のひそやかな声に耳を傾けることだと私は思っています。声にならない声を聞くこと、そこからしか自治は始まらない

ような気がしています。そしてそのようにして教育の新たな地平をひらいていけるのではないかと思っています。全体討論で深めていきましょう。

2日目の一般分科会は、若い先生からベテランまで、生徒をどう育てようとしたか、困難な学校で何をしてきたか、生徒会の指導をどのようにおこなってきたか、グループの授業をどう取り組んできたかなどが語られます。

3日目の問題別はアクティブラーニング、学校づくり、ケアの倫理について深めます。困っていることを相対化するワークショップもあります。

こんな教育でいいわけがないと感じておられる先生!職場でしんどいなと思っておられる先生!とにかく、みんなで 集まって、語り合いましょう!そしてじっくり考えましょう。18歳を市民に。生徒たちを市民に育てたい。そんな教師が、全国から集まる全国大会です。このような場に集うことが、いまほんとうに大切なことだと思うのです。

是非ご参加ください。

申し込みは、申し込みフォームから、詳しい内容は、公式案内をクリックしてください!

2017.7.27 高生研代表 藤本幹人

「トラブルメーカーY子に担任の私が伴走して」(一般分科会HR)

運営担当 池上 聡一(鳥取高生研)

「『安心して言いたいことが言えるクラスにしよう』と伝えた学級開き。そこで出会った嘘つきで攻撃的なY子。関わりの中で父親に自尊心を傷つけられている背景を知る。嘘つきは傷つきの裏返しだという発見、何もできない私への焦りを経て、何もしないが伴走することで見えてきたこと。」

これは、大会リーフレットに掲載された、浦和さん自身の文章(実践紹介)ですが、報告の中に、「顔はにっこりしていたと思うと、般若のような顔つきになる。とにかく(Y子は)顔がコロコロと変わる、」といった記述も見られます。

「父親に自尊心を傷つけられている」Y子の現実が、嘘や攻撃性という形の自己表現につながっているのではないか、というのが浦和さんの直感です。そして現実に、クラスメートへのいびつな自己表現、いびつな関わりは、さまざまな問題を引き起こすのですが、この事例・実践は、参加者にも様々な問題を突き付けてきそうです。例えば・・・

①Y子との関係の中で「傷つけられた」と訴える個人を守り、安心していられる居場所をつくる(安心して居られる関係性ができるよう励ます)にはどのように実践していくべきか。

②Y子が直面していると考えられる現実(虐待され自尊心を傷つけられている現実)を踏まえて、「いびつな関係づくり」を乗り越えていけるよう励ますにはどうすればいいか。

③このような虐待を疑われる事例において、保護者をどのように把握・理解し、どのように関わっていくべきか。

④学級の公的な活動の場で問題があふれ出した時、どのように対処していくべきか。傷つけられた子どもにとって学校は解放と癒しの場になりうるが、生徒同士が対等平等の関係を築いていくために何ができるか、等々。

報告を一緒に分析・検討することで、生徒の様々な現実だけでなく、実践の道筋・ヒントが必ず見出せると思います。ぜひ、ご参加ください。

 

わたしは ダニエル・ブレイク か? その④(最終回)認知の壁、自分の壁

堂々庵

この連載の各タイトルに「○○の壁」という言葉を付けてきました。養老孟司さんの影響なのかもしれません。(『自分の壁』という新書も出ています)
私が書きたいと思ったことは、人それぞれに物事に対しての感覚のズレや認知する違いがあることです。そして、そのズレをいかに埋めるかについて考察したいというものです。

難しい話になることを恐れず語ります。
脳科学のおいて「人は<自由意思>を持つか」という研究が進んでいるそうです。<自由意思>とは、自分の考えで行動しているといいきれる状態を意味します。この研究の脳科学の分野での一定の結論として、外的要因によって行動が決定づけられているといわざるを得ない状況、つまり自身の意思で行動を決めているとはいえないとしているそうです。いってしまえば<自由意思>はないようなのです。
「自分の意思で自分の行動を決めているつもりだったのに、そうではなかったら自分の存在とはいったい何だろう?」などと考えてしまいそうですが、そこはちょっと置いておきます。
ここで、違う側面について考えてみました。
「なぜ人間は社会をつくっているのか?」ということです。社会をつくらなければ生きられない動物なのではないかと考えてみました。たとえ(仮に)<自由意思>がなくとも社会を形成している人間であることは間違いないと思ったからです。

高生研では、<生活指導>を「生活に指導される」という意味に位置づけ、個人や集団の関係性に注意深く考察する中から研究、協議を行っています。ここにある「生活」という言葉を社会の関係性の中でどう生きるかという意味でとらえてみると、人々が形成する世界においてその諸相を分析し新たな関係性を再構築するために、あらゆる局面で生活指導の観点が有効であるように思うのです。この連載でも取り上げた、ダニエル・ブレイクの「福祉国家」についても、また、学校現場、さらには行政サービス窓口やIT・ネット社会との軋轢に対して見過ごせない観点を示しているように思うのです。
改めて自分の周りを見渡すと、「最近、Eメールを開けるのが億劫になった。」と感じている人が多くいるのではないでしょうか。今から10年ほど前はメールのやりとりを大切にして頻繁に行っていたのに、今はPCが重くなって困っているとか・・。PCが調子が悪くなって、その後メールを見る環境が変わってトラブル続きとか・・。
ブログの担当だったので分かるのですが、以前はふつうにできていたメールでのやりとりがまったくスムーズではありません。まるで刺激に対して飽きが来たようなあるいは抗体ができているような感じですらあります。簡単なメールでの意思疎通でも返ってこなかったりしっます。私は一種の「(物理的・人的な)システムの老化」みたいなものだと思っていますが、そう考えると、それらのアクセスをよりスムーズに行うためにはより多くのエネルギーが必要になるのです。(こう考えるのは私が生活指導に依拠する人間だからではないかと思います。)

ダニエルは最後に心臓病が悪化して、社会のセイフティーネットに抱かれることなく死んでしまいます。映画を見るとやりきれない気持ちになる反面、それで終わりではないという闘志のようなものが沸いてきました。「わたしはダニエル・ブレイクか?」と、映画のタイトルを疑問形にしたのは、2つの意味を持たせようとしたからです。「何があっても社会と関わりを持っていこうとするダニエルのようにあるべきだ!」というものと、「死んでしまうような立ち振る舞いでダニエルのように自分を追い込んでいっては元も子もない!」というものです。
はっきりと言えることは、止まっているのではなく前に進もうとする自分を常に問い続けたいという思いを込めてつけたタイトルのでした。

この世界で起こっていることは、目の前の社会とつながっていることです。
静岡大会まであと20日を切りました。是非大会にお越し下さい。

問題別分科会3 「ケアの倫理」と「コミュニケーション」から実践の課題を探る

問題別分科会3の運営を担当する藤本幹人です。すでに報告者の内田理さんから、この問題別分科会のねらいが当ブログに投稿されていますが、そこで触れられているハラスメントについて少し書きます。

 

セクハラ、パワハラなど世の中はハラスメントという言葉であふれています。ハラスメントは学校現場を見るひとつのキーワードであるように思います。

 

それでは、ハラスメントとはなんでしょうか。辞書で引くと、いやがらせと出てきます。内田さんが参考にする『ハラスメントは連鎖する』(安富歩)の説明によると、ハラスメントは、単なるいやがらせではなく、継続しておこなわれる一方的な意思のおしつけです。しかもその一方的なおしつけという意図は隠されているという特徴を持っています。

それは、もっともらしい理由をつけておこなわれることによって、一方的な押しつけであることを隠します。

たとえば、提出期限を守れなかった場合は、その日のうちに家に取りに帰りなさいとか、成績が不十分な場合は、大量の欠点課題を夏休みにやってもらいますなどというような場合、これは、あなたが将来、提出物に遅れない人間になるために、勉強をしっかりやる人間になってもらうため、つまり、あなたのためを思ってやっているのです、というようにです。

 

これらのかかわりは、一見、やり取りがあるように見えますが、コミュニケーションは不在です。

それではまっとうなコミュニケーションとはどういうものでしょうか?また、まっとうなコミュニケーションと学びはどういう関係にあるのでしょうか?安富氏は、まっとうなコミュニケ―ションとして次のような例を挙げています。

 

昼寝から少年が起きたとき、すでに花火大会は終わっていた。翌朝少年はぐずり始めた。母は尋(たず)ねた。「何が悲しいの?花火が見られなくて残念なの?」。少年は何かを考えていたが、しばらくすると再びぐずり始めた。「お姉ちゃんと一緒に行けなかったことが悲しいの?」。少年は再び何かを考えていたが、しばらくするとまたぐずり始めた。「出店(でみせ)でおやつが食べられなくて悔しいの?」。少年はそれまでとちがう反応をした。「そうだ。僕は悔(くや)しいんだ。寝過ごしてしまった自分が悔(くや)しいんだ」。悔(くや)しいという言葉をきっかけに少年は、これ以上、ぐずることがなかった。

 

このように、他者(この場合は母)の力を借りながら、言葉を介して世界に対する自分の情動反応を探(さぐ)り当て、自分の文脈をつくりあげる営みこそが「学び」であり、そのような学びを生み出すやり取りが、まっとうなコミュニケーションだと安富氏は言うのです。

(滋賀県・藤本幹人)