退任の常任委員の皆さんに拍手を

青森高生研 木村 一男

 新機関誌「高校生活指導 18歳を市民に」が遂に届きました。カラフルに印刷された封筒を開封し手に取ると、新高生研スタートの予感に感慨ひとしおです。
 私は1996年の青森大会(三沢市古牧温泉)の翌年、大阪大会総会で地方常任の末席に加えていただきました。以来、これといったお手伝いもできずに今日に至っていますが、私個人にとっては大変魅力的で刺激ある16年間でした。心から感謝したいと思っています。
 さて、この夏の総会で現常任委員会は解散となりますが、これまでその中心となって支えてこられた皆さんの思いが、機関誌や全国通信、東京大会応援ブログから伝わってきます。一会員として感謝の拍手をお送りしたいと思います。
◆ <機関誌2012夏季号 193号(6/10発行) 青木書店発行の最終号>
① P.130 内田書記局長「高生研常任委員会 解散・退任いたします」… 船橋先生の後を引き継
ぎ2度目の書記局長登板となった内田先生。“閉じること”を“開くこと”につなげる大変なご苦労があったことと思います。「先人達が築いてきたよきものを伝えられ、新組織の誕生に立ち会えることに感謝し、常任委員会解散・退任のご挨拶といたします。」という言葉には、継承・発展・新生に最も近い場所で関わってこられた皆さんの実践者としての良心が代弁されているようで感動しました。
② p.132 上條先生「編集後記」… 現高生研最後の代表として困難な時期のかじ取りをして下さ
った上條先生。文字通り最後の編集後記ですが、交代で編集実務を担当された池野先生とのパートナーシップなどを軽やかに書いて下さいました。池野先生もそうですが、本当に大変なことを深刻に「大変だ」とは言わない、その心持ちの在りようにはただただ脱帽そしてリスペクトでした。
◆ <全国通信 2012年 夏・最終号 162号(7/8発行)>
① P.32 池野先生「編集後記」… 「財政的にきびしくなったとき、池野眞さんが編集実務を報
酬無しで引き受け、発行を続けることができた。」(上記・上條先生) 上條先生の前に代表もつとめられた池野先生。その編集後記をあらためて掲載します。「皆さん、長い間ありがとうございました。これにて全国通信の制作も終了します。なんだかんだと言ってもやはり人が変わらなければ組織もその発行物も変わってはいきません。私たちが退場することによって、文字通り新しい高生研とその機関誌、会員通信が登場すると思います。(中略)これからは新高生研の活躍を影ながら見守っていきます。さようなら。」 1989年から23年と4カ月の常任委員としてご活躍いただいた池野先生、本当にありがとうございました。5月、最後の全国委員会(於東大)の会議中、会場の後方で、正面を背景に、前に伸ばした手に持ったカメラをご自分に向け、さりげなく一人写しをされていた池野先生。「さようなら」はちょっとこたえます。
② P.20 池野先生「メキシコ料理の会!?」… 5/26に池野先生宅で行われた「高校生活指導」
青木書店最終号の常任委員会校正作業と作業終了後の「メキシコ料理の会」が写真付きで報告されています。また「東京大会応援ブログ」でも6/21「最後の高生研な日々(その2)」(カテゴリー「未分類」)の中で詳しく紹介されています。実務を苦にせず分かち合い、一緒に食べたり飲んだりすることを大切にするというサークル運動の原点を最後に示していただいたような思いでした。(5/12「最後の高生研な日々(その1)」もご覧ください。)
 ◆<東京大会応援ブログ 7/7 片桐先生「最後の常任委員会」>
 6名の参加者で10時から始まった常任委員会。午前は会員通信発送作業、午後は大会紀要の校正作業。15時からの会議が終わったのは17時半。片桐先生は「長い一日でした。皆さん口々に“今日で最後か…”、“もうこんなことすることもないんだなあ”と感慨深げでした。」と、最後の常任委員会の幕が閉じた場面を淡々とそして淋しさも込めながら記録にとどめて下さいました。皆さん、本当にご苦労さまでした。そして、ありがとうございました。
 東京大会は、長く書記局長として困難な時期を乗り越えてきてくださった船橋先生が実行委員会事務局長です。新しい未来を展望できる大会となるよう、お互いに頑張りましょう!!
 

「つくってきた人」と「つくっていく人」へ大きな感謝と敬意を

田中克樹(熊本高生研)

 熊本の月例会(学習会と事務局会)後の夜の懇親会(自由参加)。そのとき、「田中さんは、熊本高生研の将来についてどう思ってるの?どうしていきたいの?」という問いかけに襲われることがよくあります。
 自由参加ですから回答も自由。今の答は、「まだ、自分のことだけで精一杯。でも、あとを続けて頂ける方がいなければ『会を閉じる』ところまではきちんと自分達がしようと思います」(このアイデア現高生研常任委員の方々のパクリです)。実際、現在の事務局では私は一番年下(同級生がもうお1人)。数年前、30代前半までは「若手」とか呼ばれて(もてはやされ?)、とにかくうしろをついて回るだけでよかったのですが・・・ハァ(ため息)。
 
 そんな私ですが、今回の全国高生研の大幅な組織改編では、考えを深めさせられました。
まず何よりも、これまで「全国大会の準備・運営」「機関誌の編集・発行」「全国通信の編集・発送」の3本柱を手がけてこられた常任委員の方々に、そしてこれからそれらの仕事を引き受けられた新組織の方々に、心からの感謝と敬意を表したいと思います。
 最初、上記のような仕事を「普通の現場の先生」がされていることを知ったときは驚愕しました。だってこんなクソミソに忙しい学校現場(朝早くから夜遅く・ストレス溜まりまくりな)にいて・・・。その思いは今でも変わりません。
 5年前に「高生研を解散します」と宣言され、様々な議論を経て、新しい形(指導・被指導の関係からの昇華・ボランタリーな組織運営)でうごきだしていく過程には、学ばせていただくモノが豊かにありました。
 いま、自分の実践を見ている「もう1人の自分」がいる感覚があります。高生研での学びのタマモノなわけですが、パクってきたばかりの自分から(上記の感謝と敬意を表した方々のような)「与えられる人」に少しでも近づけるようになりたいと思っています。

全国大会回想記 その④最終回

 大阪高生研の西村です。いよいよ全国大会が近づいて参りました。駄文を連ねたこのシリーズも今日で終わりです。私が参加した全国大会の半分も書けませんでした。1999年以降の大会のことはまた書く機会が巡って来るやも知れませんので、本日は1998大阪大会のことに絞って書きたいと思います。
 この大会をあえて客観的に見れば、さして開催場所のロケーションが良かったわけでもなく、ホテルのアメニティや飯がうまかったわけでもなく、エキサイティングな議論があったわけでもなく、ごく平凡な大会だったろうと思います。しいて良かった点をあげれば、前後の大会に比べて参加者が多かったことでしょうか。でも、私の気持ちの中では、歴代の全国大会の充足度を折れ線グラフで書けば、主要国における日本の国債発行額/国家予算(まどろっこしい比喩でごめんなさい)のように、ダントツで跳ね上がるのです。
 あの高揚感は何だったのか?それは文化祭で生徒が燃えるのといっしょで、自分が主体的に取り組んだ証なのでしょう。2年前から始めた準備、自分がチーフとして取り組んだ劇と太鼓の文化行事、分科会にも出ずに売り歩いたビール、眠らずに考え続けた別れの集いの出し物、会場での仕事が済んだ後の2トントラックでの書籍の返却等々、すべてが充実していました。振り返った50余年の人生の中でも、とくに光り輝く時間でした。
 こんな経験ができる高生研を、全国大会を失くしてはならないという思いで、新高生研の立ち上げのお手伝いを微力ながらさせていただいております。またどこかの地域で全国大会が開催された折り、取り組んだ人々の胸にさまざまな思いがきざまれる、という営みが今後も長く続きますよう祈念して、このシリーズを結びたいと思います。(おわり)

最後の常任委員会

本日、最後の常任委員会を行ないました。参加者は内田さん、森さん、礒山さん、船橋さん、池野さんと私の6人。午前10時に桶川高校に集まって、まずは全国通信の発送作業です。午前中一杯かけて製本と封筒詰めを400通以上。お昼は、クロネコヤマトの配送所に封筒を持って行きがてら、近くのレストランでランチメニューを食べました。昼食休憩を1時間ほど取って、午後からは紀要原稿の校正です。それが終わったのは3時過ぎでしょうか。そこからようやく会議が始まりました。昨日、池野さんと船橋さんが変更後の会場を下見してくれたので、その報告と、大会関係の確認、協議を行ないました。合わせて第3回実行委員会も開かれ、すべてが終わった頃には5時半を回っていました。
長い1日でした。皆さん口々に「今日で最後か・・・」「もうこんなことすることもないんだなぁ・・・」と感慨深げでした。私も「これからは、この人たちと会うのも年に1~2回になってしまうのか・・・」と思うと、何となく淋しいような気持ちになりました。
片桐哲郎

今までとこれから

 青森高生研の田村です。
 学校現場に帰って5年目になります。今年は、一年生の担任です。入学式を終え、班やクラスの役割を決定しクラス経営が始まりました。新たな子どもたちとの出会いにわくわくしながら、生徒の前に立ちました。しかし、4月から6月までの間に、問題行動や様々なトラブルが起こり、担任の私は日々振り回されています。中でも、メールやネット上のトラブルは以前より多く、時代の流れを感じます。また、幼稚な行動が多く、自分の年齢を感じると共に、子どもたちが人間として育っていないことを痛感する毎日です。
 今まで6つのクラスの担任をしています。高生研に出会ったのは2クラス目。3クラス目から高生研流のホームルーム、授業、生徒会活動などを実践してきました。それまでは、生徒を枠の中に閉じこめ、それからはみ出した生徒は徹底的に暴力的に指導していました。その指導には限界があることを感じていた時に高生研に出会いました。教育書を読みあさるうちに、高生研の班指導、集団指導が気にかかり出しました。対馬文夫先生、両角憲二先生にあこがれ、高生研に加入しました。その数年後、青森高生研の事務局長を10年間努め、今でも青森高生研の常任の末席に名を連ねています。
 学校現場は管理と多忙化が進み高生研流の指導は困難になっています。学校の校務や雑務に振り回され、生徒とじっくり話したり、指導する時間はそぎ落とされてしまっています。そのため、生徒の自主性、自発性、自立性は育っていません。また、それを育てる教師も育っていません。
 私たちのこれからの役割は、高生研が今まで累々と積み重ねてきた知識・経験・技術を次代の教師に引き継ぐことです。また、それを更に発展させて、新しい時代に要求される高生研流を模索することです。新高生研がその責務を担ってくれることを願っています。また、私がその一翼を担えればと思っています。青森高生研
田村儀則

「『集団づくり』の実践的伝統を引き継ぐ」とは 久田晴生(愛知)

 今全国大会の一般分科会で、私はHR分科会1を担当する。レポートは松本源太郎さんの「核を意識した学級」である。すでに何人かの方がこのブログで紹介されているとおり、かの大西忠治が著した『核のいる学級』(明治図書,1964)に触発されて行った実践である。送られてきたレポートと『核のいる学級』を読んで、「大変な分科会を担当することになってしまった」というのが率直な感想である。
 高生研は、1997年夏に現在の指標を採択した際、合わせて会則改正も行った。それ以前の会則には「集団主義」という言葉があったのだが、それを削除し、その代わり、新設した指標の中に「『集団づくり』の実践的伝統を引き継ぎ」という語句を盛り込んだのである。「集団主義」を会の目的から外し、「集団づくり」は伝統としては重んじるけど、かならずしもそれに囚われる必要がないとも読める方向に転換したわけである。
 あれから15年、松本さんが前述のレポートを引っさげて全国大会に乗り込んできた。聞くところによると、松本さんは高生研の会員ではなく、たまたま古書店で前述書に出会ったことが実践のきっかけと聞く。とすると、今回の全国大会は松本さんにしてみれば、「集団主義」という看板を出していた道場に対外試合を申し込みにきたつもりなのに、道場はいつの間にかその看板を外していた、みたいなものである。
 私が「大変な分科会」と言ったのは、この分科会は、松本さんのレポートを分析・検討することにとどまらず、高生研が「集団主義」「集団づくり」をどう総括し、これからどう受け継いでいくべきかということまで問われていると思ったからである。いや、その総括を十分検討してこなかったのではないか、と松本さんに突きつけられた思いがしたのである。その意味では、高生研のリニューアルにふさわしい分科会であると思う。と同時に、1分科会に留めるのではなく、高生研全体で検討する必要があると考える。
 さてもう一題。最近「管理」について考えさせられることが2度あった。1つは、先週の三重高生研の合宿研究会で報告されたHR実践レポートである。毎回のLHRで、団扇作り、生徒の自作川柳が書かれた巨大なカルタ大会、手製まわし着用の相撲大会、そして年度末には自家製アルバム等々、いわば「百連発」を地で行くHR実践である。その一方で実践者H氏は管理の必要性を説く。初任校で荒れたクラスの担任をいきなり持たされたことがきっかけとなって管理の必要性を感じ、その後、転勤先で生徒部長を担当したこともあって管理の徹底を図っていく。
 もう一つは、先日の金曜日、全生研のあるサークルでのこと。そこに参加した一人の大学生が「大学では子どもたちの発達の可能性とか支援・指導の必要性は学ぶが、管理についてはほとんど学んでいない。今多くの若い先生が挫折するのは、管理の仕方が分からないからではないか。」と語ったのである。これを聞いて私は、彼が言うところの、あるいは最近よく見聞きする若い人たちの困難と苦悩、および上記の松本レポート、そしてH氏のHR実践が、一つながりになって目の前に現れたような感覚を持ったのである。その例会では「安心、安全を保障するために管理をする」ということで落ち着いたが、確かに、全生研にしても高生研にしても名だたる実践家は管理もうまい。H氏もHR実践をするためには落ち着いたクラスが必要であり、そのためには管理が必要と考えたのである。
 かつて高生研は「レジム」という言葉をよく使った。「体制」「構造」あるいは「枠組み」とでも訳したら良いであろうか。例えば、「班」とか「班長会」というのはクラス内のレジムである。高生研・全生研は、このレジムを活用することで私的なトラブルが公的イシューへとせり上がることを可能にすることに、レジムの意義を見出してきた。『核のいる学級』で盛んに登場する日直は、集団が自主管理するためのレジムである。松本さんもこの自主管理の部分に注目している。高生研・全生研の実践は、指導と管理を峻別しつつ、しかし管理抜きにして考えてはこなかったのである。
 指導と管理、レジム、班、日直……、私たちは、「集団主義」「集団づくり」をどう総括し、どうこれからに受け継いでいったらいいのだろうか。高生研のリニューアルのために乗り越えなければならない課題が、今突きつけられている。
群馬も二桁参加に
東京大会の受付・千葉高生研より
7月1日現在の参加者申込数が72人となりました。毎週ほぼ10人ずつ増えております。いよいよ7月となり大会まであと1ヵ月余り、各支部とも本腰を入れて参加者増に取り組んで下さい。
神奈川から初の申込がありました。これで21都道府県になりました。また、大学生・院生の参加申込が3人になりました。
千葉12
群馬10
東京9
秋田7
静岡4 熊本4
大阪3 青森3
北海道2 茨城2 埼玉2 三重2 滋賀2 京都2 沖縄2
福島1 神奈川1人 山梨1 長野1 愛知1 鳥取1

全国大会回想記 その③

 大阪高生研の西村です。前回の続きです。
 1993年の全国大会は山形で開催されましたが、残念ながら私は参加しませんでした。3年の担任だったこと、当時、東北地方はいかにも遠方に感じられたこと、そしてなによりいままで一緒に行っていた同僚の先生も不参加だったことが重なって、1991年から現在までで唯一、この大会だけが不参加でした。後日、おまかせの行商で開催地を訪れ、素敵な場所に不参加だったことをたいへん悔やみました。
 1994年の長崎大会には、はじめて職場から一人で参加しました。もし、他の場所で開催されていたら参加していたかどうか…。というのも、大会参加もさることながら、当時傾倒していた坂本竜馬の足跡を訪ねることが長崎行きの重要な要因だったのです。が、大会での太鼓教室や深夜までのホテルのロビーでの語らい、早朝のソーラン節講習など、高生研全国大会の魅力にはじめて触れた大会でもありました。
 翌年は山梨大会で、大阪からの参加者は少なかったように記憶しています。私としては東京の劇団・青年劇場のM氏との語らいが非常に印象深く、さまざまなところで語ってきました。あと、帰りがけに上九一色村のサティアンを見に行ったことですか。最近、指名手配中の容疑者が次々と逮捕され、またクローズアップされていますが、当時はサティアンでの逮捕劇の直後で、現場近くは警察が交通規制をしていて遠くから眺めた程度でした。
 1995年は青森大会で、三沢温泉での開催でした。2年後に大阪で全国大会を引き受けることになり、ただ大会に参加するだけではなく、大会運営の下見としての大会参加でもありました。その歓迎の夕べでいきなり「振鈴」を見せられ仰天し、別れの集いのクライマックスに感動し、たいへん心を揺さぶられる大会でした。大会後、はじめてねぶた祭りに出会ったことをはじめ、青森・函館を堪能したことも印象的でした。
 翌年の神奈川大会は、次年度の大阪大会をかなり意識して参加した大会でした。大阪高生研のメンバーがどんどん結束していったような印象があります。とにかく、大阪大会のアッピールばっかりしていたような気がします。そのぶん、せっかくの箱根を満喫できなかったのが残念でした。   (つづく)
千葉の参加申込者が2桁に
東京大会の受付・千葉高生研より
 恒例の月曜日の東京大会参加申込者数速報です。わが千葉高生研が、地元受付の名誉にかけて2桁の大台に乗せ、トップとなりました。先週の土曜日に、千葉高生研としては最後の例会を行い、そこでの検討の結果、目標の20名はいくだろうという予測が成り立ちました。(ちなみに、千葉高生研としての例会は最後ですが、有志の研究会は続けてくことになっています。ただし、参加を広く呼びかけたりというような活動はしません)
 合計の参加申込者数は64名となりました。
千葉12
群馬9
秋田6 東京6
静岡4 熊本4
大阪3
北海道2 青森2 埼玉2 三重2 滋賀2 京都2 沖縄2
福島1 茨城1 山梨1 長野1 愛知1 鳥取1

「この生活指導書がおもしろい」

群馬高生研 稲葉淳です。東京大会の申し込みをしました。
高校生活指導193号読みました。「特集2 この生活指導書がおもしろい」とっても興味深く読みました。その3つ目の『核のいる学級』大西忠治著(64から67ページ)を書いたのが、今回の全国大会の二日目(8月11日)一日通しの一般分科会「ホームルーム」を報告する松本源太郎である。
彼と初めて会ったのは、一年前の名古屋の大同大学で行われた、第49回全国大会である。群馬県から参加したメンバーで集まっての意見交換や、全国大会に参加しての感想を聞いて、鋭い指摘に驚かされた。その後、仲間からの誘いもあって毎月行っている事務局会議に参加してもらっている。
3月に行った、群馬春ゼミに彼の実践報告を聞き、参加者にいろいろな興味ある2年間のHR実践であった。3時間の報告であったため、深くまでの追及ができなかった。全国大会でもう一度彼の報告を聞き、そこに参加した全国の仲間と新しい発見があることを期待している。
                             群馬高生研 稲葉 淳

大会テーマに関連して、「熟議」についてちょっと考える

 最近、外で飲むとき一人酒が多くなった。群れて話しながら酒を飲むことに疲れたからなのだが、一人で飲んでいると多くの人たちと触れる機会が増えて刺激的でもある。そればかりでなく、多様な価値観を浴びることによって、日常の澱のようなストレスが解消されていくのである。
 先月、こんなことがあった。
 文化祭2ヶ月前、各係が生徒総会を前に議案づくりをする会議があって、私は会場係を割り振られその係会に出席した。係長の原案は、「例年どおり教壇を運ぶので、重いから怪我をしないように。」といった内容が素っ気なく2行記述されているだけ。各HRから集められた係の生徒からは質問も意見も出ず、私も発言などしたくはなかったのだが、教師の役目だろうと、「ダンスコンテストの企画にもとづいてステージは設計されているのか。昨年問題になった安全性はどう検討されているのか。」と穏やかに発言した。係長はいかにも面倒くさそうに、「そんなことは実行委員会に聞いてくれ。去年のとおりにやるだけだ。」と言い放つではないか。係長の関心は、連絡のために係員のメールアドレスを集めることにあった。少々むっとした私は、「執行部が会員にお説教するような内容が総会の議案になるのか。600人の議論に耐える原案の体を成していない!」と声を荒げた。係長の近くにいた同じ3年生がウルセエナアとつぶやくのが聞こえた。
 その晩よく眠れなかった私は、翌日、生徒会顧問に係長会ではどんな議論をしているのかと尋ねた。時間がないから係長会は開いていないという。議案づくりはどうしているのかときいて、前日の様子を話すと、「まだ子どもだから、そんな次元の高いことを要求するのは無理だ。」と顧問はいった。
 居酒屋のカウンター越しに事の顛末を店の主人に愚痴ると、「俺なら胸ぐらつかんで殴ってるな。」と笑いながらいった。生徒もオヤジも似たようなものだと内心思いながら、このストレスは排泄された。
 東京大会のテーマと講演にかかわって、名古屋大の田中哲樹氏の『熟議の理由―民主主義の政治理論』(勁草書房)を読み始めた。わからないところは読み飛ばしているが、考え方は興味深い。上條さんに紹介されて読んだ『思想としての共和国』と対比してみると、民主主義への認識が少し深まるような期待がある。
 だが、我が身も含めて現代人の日常生活に熟考の場面がどれほどあるか。ICTの発達は思考の瞬発力は鍛えたが、熟考する力は衰退させたのではないか。声高に詭弁を弄する政治家に多くの若者の支持が集まる。これは決して大阪だけの現象ではない。いいのかこんなに「未熟」になって!と、先日のストレスがぶり返してきた。ここしばらくは熟議について考えることになりそうだ。
                                (長野・小澤)

「閉じること」と「開くこと」

                                       青森高生研 木村 一男
 5月12日(土)~13日(日)、第112回全国委員会が東京大学で開催されました。主たる案件は新高生研のスタートに向けた仮事務局からの経過報告や各種提案、そしてこの夏の東京大会開催に関わるものでした。
仮事務局からは、全国通信第160号(1.29)での「新組織準備状況と移行のお願い」に続き、4月の161号では9ページに及ぶ「経過報告、お願い、暫定的会則案、会則案の説明」などが会員に向けて情報発信されていましたが、今回の全国委員会では、新高生研仮事務局長の藤本先生からその161号を資料とした実に丁寧な経過報告などが行われました。藤本先生は東京大会総会においてもこの経過報告にはあえてこだわり、時間をかけたいとのお話しがありましたが、それは2008年以来、組織検討委員会や仮事務局の皆さんが、多くの議論渦巻くなか、新しい組織のあり方や機関誌・会員通信・全国大会などについて、大変なご苦労を重ね、丁寧な議論を尽くすことを大切にしてきたその証なのだろうなと思いました。特に、「経過報告とお願い」の最後の部分(会員通信p.6)で、藤本先生は“個人的な思い”であり“具体的な答えがあるわけではないのですが”としながらも、会員相互の応答関係について「批判とケアの両輪で」と語られている部分に、私は大きな共感を覚えました。あらためて組織検討委員会や仮事務局に関わってこられた皆さんに、心から敬意を表したいと思います。
2008年、「青い森から未来を語れ」と呼びかけて取り組んだ青森大会最終日の総会において提案された「常任委員会(高生研)の2012年解散」の衝撃以来、この4年間の到達地点が今度の東京大会で示されます。「閉じること」がメビウスの帯のように「開くこと」につながっていることをこの4年間が示しているのだと思います。
閑話休題。さて、考えてみると、今回の全国委員会は新高生研に移行する前の「最後の全国委員会」となりました。1986年以来「ふたき旅館育ち」の私としては、やはりいろいろな思いがよみがえりました。また、機関誌193号が青木書店最終号として無事校了し、6月10日発行予定とのお知らせを上條先生からMLメールでいただきました。全国通信も次号が現スタッフでの最終号となります。「閉じることは開くこと」と思いながら、新高生研の一会員(シニアですが)として新たな高生研の活動に期待したいと思います。「全国フォーラム」にもたまには参加させていただきたいなと思っています。(もちろん旅費なし参加でOKです。ここがシニアの強みかと)
東京大会は、私自身にとっても大きな意味を持つ節目となる大会になりそうです。お互いに頑張って「いい大会」にしたいものです。

参加申込者37名に

東京大会の受付・千葉高生研より
 6月4日現在の参加申込者が37名になりました。この1週間で13人増えました。県別の申込者数は下記の通りです。申込者が20都道府県に広がりました。
 ホームページにリーフレット・申込書もアップしました。早めの申込をお願いいたします。
群馬7
大阪3 熊本3
北海道2 千葉2 埼玉2 東京2 三重2 滋賀2 沖縄2
青森1 秋田1 福島1 茨城1 山梨1 長野1 静岡1 愛知1 京都1 鳥取1

全国大会回想記 その②

 大阪高生研の西村です。前回は、わたしがはじめて参加した1991年の京滋大会のことを書きました。今回はその続きです。
 さて、1992年の全国大会は今年と同じ東京で行われました。前回同様、同僚の先生に連れられて、物見遊山の上京でした。20年前でほとんど記憶にない中で、2人の女性が鮮烈に印象に残っています。といっても、「女性」というジェンダーで括ってしまうと、お2人に叱られてしまうでしょう。当時はまだ「ジェンダー」という言葉が世間では流布していない時代でしたが、この20年で「ジェンダー」という概念が広まった背景に、このお2人は相当貢献をなさったのではないでしょうか。
 そのおひとりは、現社民党の代表を務めておられる福島瑞穂さんです。当時は名前こそ売れてはいましたが、もちろんただの人権派弁護士というだけの方でした。政界に出られるとは思ってもみませんでした。せっかく東京で大会をするので、東京在住のネームバリューのある方にお話を聞くという交流会企画だったと思うのですが、いまから思うとたいへん貴重な経験をさせていただきました。
 もうおひとりは、吉田和子さんです。たぶん問題別分科会だったと思うのですが、文化祭指導について話をしていただいたと記憶しています。このとき初めて「実践家」という言葉を耳にし、また、HRで取り組む文化祭の出し物を、強引に「劇」にもっていくやり方に、違和感をもったものでした。まもなく高生研でお顔を見ることがなくなるのですが、2002年北九州の布刈会館で行われた九ブロで再会して親しく話をする中で、当時抱いたイメージとは全く異なる方だったことに気付きました。
 さて、東京ではもう1度、7年前に全国大会が開かれていますが、これはまだ皆さんの記憶にも新しい大会だと思います。この大会ではじめて応援ブログなるものが導入され、今回と同じように月に1回のペースで原稿を書きました。また、元劇団四季の羽鳥さんを招いてのワークショップが印象に残っています。前泊も含めて3泊だったのが2泊になったのもこの大会からだったでしょうか?講演会を初めて導入したり、大会終了後に大交流会がおこなわれたり、“新しいスタイルの大会”という印象が強い大会でした。
(つづく)

高生研という組織の中に有志による新たな主体が立ち上がった

 今からちょうど3年前、2009年5月の全国委員会において「2012年の大会までしか現状の常任委員会体制は維持できないことを確認する」という意味での「常任委員会の解散」が提起されました。新たな研究活動と組織活動の主体について高生研は討議すること、常任委員会は、その有志による討議に財政面を除いて介入しないこと、有志による討議の場を全国委員会や総会に保障することを提起し、全国委員会はそれを承認します。それをうけるかたちで絹村と藤本は、有志による組織検討委員会を立ち上げることを呼びかけます。
 2009年8月の大阪大会総会終了後、十数名の有志による組織検討委員会が立ち上がります。
2010年8月の札幌大会総会では、組織検討委員会の「個人会員制を基本とし、有志グループの活動を中心とする」という検討結果が提起され、これが、現在の新会則案の原型となっていきます。また検討結果を受けて新高生研仮事務局が設置されることが決まります。
 2010年12月の全国委員会終了後、17名の有志会員が集まり、新高生研仮事務局が発足しました。これまで10回以上の会議を重ね、新会則案、財政、新機関誌などについて討議を重ね、新体制の準備を整えてきたのです。
 このようにして高生研という組織の中に有志による新たな主体が立ち上がったのです。高生研は、有志による新しい主体の出現にこだわってきました。この有志の精神は、新高生研の新しい組織原則にもなっています。
 高生研は解散しないのですから従来の高生研とはまったく別の組織が生まれるのではありません。かといって、たんなる会則の変更でもないのだと思います。「新組織の発足」でもなく「組織の改変」でもないのです。あえて言うならそれは「新たな主体による再組織」ということになるのでしょう。これは、民間教育研究団体における大いなる実験的試みと言えるのかもしれません。
 全国通信春号の「新高生研仮事務局からの経過報告とお願い」もあわせてお読みいただければ幸いです。
                         (新高生研仮事務局長 藤本幹人)

東京大会を考える<その③現高生研と新高生研>

 高生研全国大会は、今年、この東京大会で第50回開催となる。そしてこの大会をひとつの区切りに、高生研は新たな高生研として生まれ変わる。
 現在、仮事務局を中心に準備が進められていて、この2012年東京大会の総会において正式なスタートを切ることになる。(詳しくは、「“新高生研”って何が新しくなるんだろう?」※
 この移行について、仮事務局長の藤本さんは、「『新組織の発足』でもなく、『組織の改変』でもないのです。あえて言うならそれは『新たな主体による再組織』ということになるでしょう。」(高生研全国通信2012春第161号)と伝える。この「新たな主体」というのは、何を指すのか? 高生研の会員また、の記事を熟読された方なら気付くと思うが、「<常任委員>に変わる主体」ということになる。
 高生研の会員でない人から見れば、「結局、組織の改変でしょ。」と受け止められることかもしれない。<常任委員会>を<有志グループ>に代えただけではないかと。しかし、<主体>という価値観を位置づけている点は注目すべきだと思う。
 グループに主体的に関わるメンバーは、その位置づけとして総会の承認を受けることになっているものの、ある意味頼りないというか、曖昧というか、ボランタリーな存在に頼ることになる。そして、「もし、そんな主体的な人がいなくなったら組織はどうなる?」ということも考えてしまいそうだ。しかし、高生研がこの2・3年仮事務局会議で積み上げてきた議論の流れが、ここに集約されているように思う。「『18歳を市民に』と掲げる高生研」は必要とされる限り新高生研として続いていくことになる。もちろん、<主体>の様相も変化していき、組織議論は今後ますます必要になるだろう。
 消閑亭さんが、「新高生研は、「頑張らない」」で伝えることを実践するために導き出したひとつの答えだと思う。
(文責 アンドウ@三重)

東京大会を考える<その②大会会場>

 東京大会の魅力はなんと言ってもこれ以上ない都市型大会であろう。都市という幻想という話を今からするつもりはないが、江戸時代から花開いてきた都市の中に、人を引きつける様々な文化が息づいていることは確かだ。
 7年前の大会ではプリンスホテルを基本宿泊施設として、芝学園の中学・高等学校の校舎を使って行われた。今考えてみると、この上ないロケーションだあったことに気づく。東京タワーあり、増上寺あり、足を伸ばせば麻布や六本木。そういえば、森ビルを遠くに眺めて会場まで歩いたことを思い出す。いまでこそ携帯やスマホで道案内させる機能があるが、この頃はまだイノベーションがそこまでたどり着いていなかったように思う。大会のしおりにつけられた案内図が役に立った。
 この大会では昼食は会場には用意されなかった。各々が自分で食べ物にありつけないといけない。例の案内図には昼食をとるのに手頃なお店が手書きで表示されていた。千葉のIさんがその界隈を歩き回って作り上げたものだった。「こんな地図があると参加者としては確かに有難い。なるほど、大会作りとはこんなところからもアプローチできるのだ。」と感心しものだった。
 2012年版東京大会会場は、1月13日の記事にもあるように東洋大学で計画が進められている。夏休み中ということで噂の学食の使用がどのようになるのか、最終決定が明らかにされていないが、海千山千の常任委員が集まる東京大会実行委員の交渉手腕に期待したい。 それとは別に、東洋大学周辺の手作り地図作りが、今度は群馬のFさんも加わって準備されることを伝え聞いている。

東京大会を考える<その①7年前の「今日の言霊」と「I氏基調日記」から>

 2005年東京大会が行われた。7年、あっという間。月日の流れの速さをつくづく感じる。
 その時から全国大会応援HPなるものが有志的に作られ、応援ブログの走り、「今日の言霊」が綴られた。31人の執筆者が日替わりで記事をおこし、更新される。アイディアは大阪のSさん。「今日の言霊」担当は沖縄のIさん。この名タイトルをつけ、原稿催促から更新を見事にやりきった。タイトル通り、日々のエピソードをそれぞれの人間が、思い思いに綴っていく。重軽長短様々だったが、それがそれぞれの味を出していて良かったし新鮮だった。Iさんはその他のページのデザインもやってたように記憶している。(その後、全国大会を応援するHP(ブログ)は、その表情や内容、形を変え、全国大会の盛り立て役としていくらかの役割を果たしてきた。)
 この年の東京大会応援HPでは他に「I氏基調日記」というブログを、「今日の言霊」とは別立てで起こしていた。リンクを張って論争的な記事を載せることをした。(わたし(アンドウ)はその担当で、応援ブログとの関わりはそこに始まっている。)
 大阪のIさんの基調発題は、「<つながりなおす>みんなが生きられる学校へ」というタイトルがつけられていた。「若い先生たちと話をしていて、『生徒とつながりたい』という言葉をよく聞くんです。」と、「つながり」を使う経緯を話していたことを思い出す。今でこそ何の違和感もなく使われているこの言葉だが、その当時はそこそこ歳がいった教師(たとえばわたし)には浮き足だった言葉のように感じられた。まさか、教育や社会状況の中でこれほど普通に使われる言葉になるとは思わなかった。
 今回の東京大会では基調発題は行われない。それでも、80年代以降の基調を再検証する、「基調を読む」という小特集が機関誌に掲載され、それらをもとに全体会で研究協議する計画が進んでいる。たった7年の間で、「つながり」という言葉の受け止められ方が変わってきた。その背景や変遷の具合について、是非取り上げてもらいたいと、考えている今日この頃である。

全国大会回想記 その①

 大阪高生研の西村です。これから、月一回登場予定です。でも、いきなり期限を失念していました。
 さて、何を書こうかと考えたのですが、全国大会のブログなので、わたしが参加した全国大会をいくつか回想してみたいと思います。わたしがはじめて参加した全国大会は1991年の京滋大会でした。はじめて都市型と銘打った大会だったそうで、それ以前の宿舎自治を体験していないのが残念でなりません。
 この大会、同じ担任団だった国語の先生に誘われて、新任の家庭科の先生と一緒に3人で参加しました。その国語の先生は前任校で、現大阪高生研代表の中村さんと一緒だったのですが、この大会で出会っているはずの中村さんの印象がなぜか皆無なのです。
 この大会で一番印象に残っている方は、当時の大阪高生研の事務局長で代表もされた、現東洋大姫路高校の辻先生です。辻先生はわたしと同じ生物の教師で、この大会の基調に「共生」という生物用語が使用されていて、いまでは何の違和感もなく使っているこの言葉が、そのときは訳が分からなくて辻先生とかなり議論したことを覚えています。
 また、印象に残っているできごとは、夜の交流会で大阪高生研の企画として「夜の加茂川河畔で飲む」というのをやったことです。交流会とはいえ、現地に着いてからの思いつきのような企画で(間違ってたらごめんなさい)、さらに大阪だけではなく全国の方がその企画に参加されるというのを目の当たりにして、なんとフレキシブルな会だという印象を持ちました。
 基調をはじめ、使用されている専門用語は難しく、参加した分科会も難解でほとんど意味が分かりませんでしたが、全国からたくさんの先生が参加されているという熱気と、辻先生はじめ大阪高生研の先生方の優しさに絆され、わたしの高生研通いがスタートしました。(つづく)

新高生研は、「頑張らない」

消閑亭です。
きょう4月21日に、熊本高生研の人たちが『高生研全国通信』第161号(春号)の発送作業をして下さったと思います。印刷、製本、袋詰めとけっこう面倒な作業だったことでしょう。
 161号の版下は私がつくりました。
 この『高生研全国通信』をつくるのもあと1回だけとなりました。
 『高生研全国通信』は、1997年4月、ちょうど100号から私がつくり始めました。それまでは『高生研会員通信』という誌名でした。
この『高生研会員通信』は、まだパソコンがあまり普及してなかったこともあって、ちゃんと印刷所に頼んでつくっていました。ミニ『高校生活指導』のようなもので、それなりにかっちりしていて、編集は大変な作業でした。そのために、衰退期に入った高生研としては、きちんと定期的に発行することができなくなりつつありました。
 『高生研全国通信』が発行される少し前、会員数の減少を食い止めるために、会費の口座引き落とし制度を導入しました。かなり異論もありましたが、最終的には合意されました。
反対理由の主なものは、「会費を手渡しすることで人間関係が維持される」というものでした。一理ある意見です。ただ、情勢分析はできていない意見でもありました。引き落とし制度を導入しなければ、今ごろ高生研は、あっても名ばかりの団体に落ちぶれていたと思います。
 多少の軋轢を覚悟して引き落としで制度を導入した手前、会員通信くらいきちんと年4回、季刊で出さないとまずいだろうと思いました。それで、私が手づくりで『高生研全国通信』として発行し始めたのです。「全国」通信としたのは、「会員」通信では、地域高生研の会員通信と紛らわしいからです。
 その第100号は、NECのワープロでつくった縦書き12ページのものでした。あのころのワープロは、それなりに日本語の紙面をつくるには適していたとみえ、いま見てもきれいな紙面です。
 私はやると決めたら、けっこう頑張って続けます。民間教育運動を担っていた人はみんな言っていたことですが、「継続は力」です。とにかく、内容なんか二の次で、定期的に続けること、これが大事です。ということで、数号をほかの人が書いたものの、ほとんど60号、年4回つくり続けました。
疲れました。あと1号でやめられるかと思うとほっとしています。
 こういうことはどこかで区切りをつけなければなりません。特に、退職教師というのは、もう生徒の顔を見ていないのですから、通信をつくっていても、単なる作業員に過ぎません。教師をやっているからこそ、こういうことも楽しいのです。
 現役教師も、退職教師に頼っていてはいけません。だから、高生研は、いったん解散すべきなのです。私は、誰が何と言おうとも、東京大会で高生研はいったん解散だと思っています。
 戦後民間教育団体は、歴史的使命を終えたことを自覚すべきだと思います。「継続は力」などと古いことを言っていた人たちは、退場すべきときです。
 そして、こういう決意が、幸いにも、まったく新しい組織形態をもった、新高生研を生んだと思います。
思えば、戦後民間教育運動も男社会の申し子でした。「何が何でもやりきる」みたいな発想で、家事と育児を妻に任せて夜遅くまで活動に邁進、これでは女性会員が少なくなる訳です。
 新高生研は、みんなが平等で、変な権威をつくらず、軽やかに、誰でも参加できる、そういうものになっていけるような気がしています。
頑張らないで下さい。一銭も儲からないのですから。
 楽しいと思える、やれる範囲のことを(なんて言うことも、余計なことでした)。

「“新高生研”って何が新しくなるんだろう?」

 滋賀の藤本です。現在、新高生研仮事務局長の任にあります。
 1月31日付けの久田さんの記事(「新高生研に願う・その1…単行本を出そう」)に応答します。「”新高生研”って何が新しくなるんだろう?」と久田さんは問います。それについてのあくまで私の個人的な考えですが、このブログに書くことで私なりの考えをまとめてみたいと思います。
 現在の高生研は、会則で見る限り、確立した理論を一般会員に普及していく組織の作りであったということができるのではないでしょうか?それに対して新高生研は、さまざまな現場の実践にもとづきながら新たな理論を作っていく組織の作りであるということができるのではないでしょうか?
 そのように考える理由を現会則にもとづいて述べます。
 現在の高生研には常任委員会という機関があり、「常任委員会は、本会の最高指導機関である」(会則の5の(2))とされています。いわば常任委員会と一般会員には指導する者と指導される者という関係があるということでしょう。集団づくり論という確立した理論を常任委員会が指導し、一般会員はそれを指導されるという関係が会則の前提にあったのではないでしょうか?
 また会則の7には「本会員の権利と義務」として次のような規定があります。
 (1)会員は各県毎に支部を結成する。
 (2)機関誌の普及につとめる。
 (3)会員拡大につとめる。
 (4)機関誌が送付される。
 (5)各種例会に常任委員の派遣を要請することができる。
 この5つのうち、(1)から(3)は会員の義務でしょう。また支部という表現からも中央の組織と地方の支部という上下関係(上部組織と下部組織)が想定されています。
 (4)と(5)は会員の権利ということができると思いますが、その権利にしても、みんなで議論して理論をつくっていくという権利というよりも、先ほども言ったように最高指導機関としての常任委員会(常任委員)から理論を与えられる権利と読み取れます。
 このように「本会員の権利と義務」を見ても、確立した理論を常任委員が一般会員に普及していくことを想定した組織の作りであったということができるのではないでしょうか?
 しかし生徒(若者)の現実は、集団づくり論で上手くいくような状況ではなくなってきました。生徒(若者)の現実をもう一度捉え直し、実践と理論を問い直す必要が出てきたのだと思います。そして組織形態自体が、現場の実践にもとづいてたえず理論を作り出すことのできる組織に再組織される必要が出てきたのではないでしょうか?
 新高生研では、支部はつくりません。もちろん各都道府県ごとの高生研は存在しうるでしょう。それは各都道府県の高生研会員がつくる都道府県単位のサークル組織です。全国と各都道府県のサークルは、上下関係ではありません。
また最高指導機関である常任委員会もおきません。
 機関誌グループ、大会グループ、全国通信グループ、理論研究グループという有志グループをおき、それぞれのグループが機関誌を作成したり、大会の計画運営を担ったりします。  
 有志と言っても、やりたいときだけ参加するというものでものではなく、グループ員は各活動の担い手として責任を負います。(やりたいときだけというオブザーバー的な参加も可能ですが。)活動を担う意志のある会員なら誰でもグループ員になれます。
 各グループはたんに実務を担うものだとは私は考えていません。理論研究グループは言うに及ばず、機関誌グループにしても、大会グループにしても、全国通信グループにしても、たえず理論的力量を高めていく必要があるでしょう。機関誌や全国通信にどんな実践を載せていくのか、どんな論文を載せるのかを考えなければなりませんし、大会のレポートをどのレポートにするのかについての判断も理論的な力量がなければできないでしょう。でなければそれぞれの活動は質の高い活動にはならないでしょう。それぞれのグループ員が理論的に高まる必要があるのです。4つのグループ活動のそれぞれがそれぞれの活動形態に応じて理論的力量を高めていくのです。
 各グループのチーフは、全国に分散することになるでしょう。関東への一極集中ではなくなります。その活動の中心としてもっともふさわしい人になってもらう必要があるからです。
 現在の高生研には全国委員会という一種の代議制の組織があります。会費の多くはこの全国委員会の旅費に使われています。しかし新しい高生研では、まずグループ活動を重視します。なぜならすでに述べたようにそれぞれのグループがそれぞれの活動形態に応じて理論的力量を高めながら活動を作っていくことを重視するからです。
 現在の高生研は確立された理論を普及する組織の作りであったと言いました。その理論の普及のための組織の一つとして全国委員会を位置付けていたのではないでしょうか。たとえば、会則の5の(3)に全国委員会は、理論研究を行う機関ではなく「全国運動に責任を負う機関である」とされています。全国運動とは理論の普及ということではないでしょうか。
 もちろん実態はそうではなかったし、極端な言い方をしているかもしれません。しかし、上に挙げた会則を見る限り、そういう組織の作りであったということです。
 それに対して、以上述べてきたように、新高生研の組織の作りは、多くの一般会員をまきこみながら、さまざまな現場の実践にもとづいてたえず新たな理論を作り出す組織の作りになっているということが言えるのではないかと思います。
 (新会則の案についてはまもなく発行される会員通信をご覧ください。)

高生研会員倍増計画 100の方法

24日に2013年の大会会場となる同志社高校の見学も合わせて、
仮事務局会議が行われました。14名が参加していました。
                                          京都 岸田康子
100の方法のうち、50を考えました。
あとはみんなで動きながら考えて、会員倍増を達成できたら
いいなと思っています。本気です(笑)
1)リーフレットは常に持ち歩く
2)新刊の会誌も持ち歩いて売る
3)その場で申込書に記入してもらう
4)他の研究会に行くときは許可を得て宣伝する
5)他の研究会に行ったが許可を得ていないときは、質疑応答でさりげなく「参考になったのは…」と宣伝する
6)他の研究会でレポーターをするときは「18歳を市民に」というフレーズを使う
7)他の研究会でレポーターをするときは、会誌を紹介する
8)仮事務局メンバー全員、メールの署名の下に高生研の宣伝をつける
9)新入会員特典をつける~たとえば割引~
10)新入会員特典~○○先生に教えてもらえる券~
11)会員は、新会員に入会してもらえら特典がある
12)各種教育系雑誌・メディアの取材を受ける
13)会誌に寄稿すると特典がある
14)フェイスブック大活用
15)教育雑誌にただで広告してもらう
16)教育雑誌に寄稿し、ついでに広告してもらう
17)「法人」「団体」会員も募る
18)「行商」(会誌を売るのがメイン)、「出前」(“高生研プチ講座”をしに行く)
19)穴場かスキマに会誌を売りにいく(「穴場」や「スキマ」は現場で探す)
20)「学校の生活指導部には一冊!」というチラシをつくる
21)現会員がひとりずつ、東京大会に誘う
22)東京大会中、その場で入会してもらうえるよう、「高生研の50年と精神」という展示ブースをつくる
23)例会などに「いちげんさん」だった方には、都度お礼状を送る、で、お誘いも送る
24)他の研究会への入会を誘われたら、そちらにも入り、その相手にも高生研に入ってもらう
25)これまで会誌への執筆、例会、大会参加されていた(された)方をリストアップし、最近遠くなっていた方から(ほど)お声かけをする
26)ホームルームびらきや行事への取組の一部のみを(「ふいのまじわり」などに)アップする→役立つ情報の「予告」(会誌の立ち読み感覚、全部は載せない→会誌を買ってもらう)
27)偉い方?有名な方?にコメントをもらい、会誌の帯にする
28)普通の教師の普通のコメントを帯にする、できれば若いひと
29)生徒・保護者の大規模アンケートなどで声を聞き、「高生研に入ってると『安心される教師』というイメージ作戦」(笑)
30)こういうことを、みんなで出し合う。で、来るのが楽しみ、来たら楽しい事務局会議、やりたいことができる研究会にしよう!
31)行政と連携し、「文科省推薦研究機関」のように認可を受けて、参加者の負担を減らす
32)教育学部系・教職課程系のある大学とのタイアップで、教職希望者に存在を知ってもらう
33)採用試験対策講座の「主催」もする
34)○○研究会と提携
35)○○協議会と提携
36)PTAと提携
37)ロゴマークを作り、バンパーステッカーを作る
38)高生研の『課外活動』を認可し、そこメインの会員活動もありにする
39)ロゴマークの入ったグッズを製作し、広報に利用→入会特典
40)吊り広告・交通広告
41)府県レベルの私学連合会・教育委員会と提携
42)「皆勤賞」・「精勤賞」の表彰
43)「勤続●●年」記念賞の制定
44)現会員が入っている、高生研以外の研究会名をリストアップし、そことの例会などの共催
45)私のお世話になっている私国研・こくご教科懇談会との共催
46)高生研HP以外に「瓦版」の発行
47)高生研カレンダーを作り、新規・継続会員さんの特典にする
48)高生研DMを送る
49)バナーを複数種つくり、他の研究会のHPやブログに貼らせてもらう
50)広告飛行船を飛ばす
質より量で考えたので、えぇ??というものもあります。
でも、私にとって「とっておき」の高生研活動への参加を、
一人でも多くの人に知ってもらいたい、という
純粋な気持ちからです。

高生研はこんなところ~個性・絆・ぬくもり~

北海道高生研の井上です。 もともとは社会教育・子育て支援論の研究者なのですが、縁あって1月から北海道高生研の事務局長をつとめることになりました。 よろしくお願いいたします。
私が全国高生研の会員になったのが群馬大会の時ですので、はや10年になります。
高生研では、生徒の発達や自立(直近の進路も含めて)の問題に常に深い次元で向き合う先生に数多く出会い、「教師」の仕事の奥深さを私に教えてくれました。
現在、いくつかの大学・専門学校で非常勤講師をしておりますが、いろいろな学生に出会う中で、現在の青年期を生きる「しんどさ」の一方で自立への切なる願いを秘めていることによりそった学びを追求できているのも、私自身ここで学んできたことが活かされています。
高生研の会議では若手・ベテラン関係なく、とにかく個々の価値観のぶつかり合いが激しく、正直なかなかついていけない時期もありました。しかし、それは今の日本社会で忘れ去られようとしている「深い」絆をつくろうとする人間のあたりまえの営みであり、そこには「ぬくもり」があります。写真は、先日の会議の席で私の遅まきの就職祝いに頂いた花束です。
高生研はそんな個性あふれる高校教師や様々な関係者の集まりです。個性的な教師に出会った分だけ、教育への視野、子ども・若者の理解、楽しい懇親会による体の横幅、いずれも「広がる」こと間違いなしです。